赤ちゃんはみんな、明るく元気で、親がちょっと目を離すとすぐいたずらをします。それが実は「人間」、つまり「私たち」で年齢を重ねたからと言ってそんなに大きく変わるものではありません。

40歳の人も70歳の人も、ともにヤンチャで悪戯好き、何事にも本当は興味津々で、おかしいことがあれば声を上げて笑いたいのです。ところが、小学校に上がる頃からあんなに元気だった子供が、少しずつ少しずつ、目に見えないスピードで変化し、だんだん元気がなくなります。

それは現在の教育というものが「人間を対象にしていない」ということによります。一人の人間を「国家のために貢献させなければならない」という強い使命感が教育関係者にあります。「日本のために役立つ人間とは」というのが常に議論され、あるときには(高度成長期)、個性のなく一定のことが集団でできる子供たちを育てました。小学校から「これは学ばなければ進級させない、進学させない」というものでがんじがらめにして個性を捨てさせました。その結果、日本としては大成功をして世界が驚くような成長を成し遂げました。それはそれで評価が分かれると思います。

その代わり、「何でも言われたとおり」という人だけで社会が構成され、「空気」だけに従って一斉に行動するということになりました。今から40年前「石油がすぐ無くなる」と誰かが言うと、全体を見渡すことなく、「トイレに行けなくなる」と思ってトイレットペーパーを買いあさったという現象になりました。

でも、人間というのは、数学が得意な人、詩を理解できる子供、ピアノがうまい子、バレーボールは才能があるけれど100メートルというと全くダメという人など千差万別です。それを強制的にやらせて、おまけにあるレベルまで来なければ合格させないという残酷なことをするのです。

よく「数学嫌いでも数学は必要だ。数学的な考えは人生にとても大切だ」と数学の先生が言われるものですから、私が大学の管理をしている時に、「数学がどのように人生の考え方に影響を与えるのか?」を聞きに行きましたが、ほとんどキチンとした説明はありませんでした。数学の先生に辛い言い方ですが、私に説明する態度と言い、話の内容と言い、とても「人格者」と呼べないような人たちでした。

数学がまったく役に立たないと言うことはありませんが、数学の代わりに国語を勉強したらどうなるか、歴史は必要か、地学はどうか・・・と聞いていくと、とどのつまり「その先生が数学が得意だったので、他人より優越感を味わった」と言うことなのです。

子供が学ぶべきことを、現実に子供が勉強できる量の2倍から3倍を準備し、子供の特徴に合わせ、興味に合わせて学ぶことができるのが良いと思います。わかりやすく言えば、バレーボールでも陸上でも選べるということです。

数学が非常に好きな子供は200人に一人と言われていますが、それでも日本全体で50万人が数学が極めて優れているということです。英語でもなんでもそうですから、「読み書きそろばん」程度を越える、二次方程式とか、虚数、細かい歴史の年号などは好きな子供だけにするのが人間というものを認めた教育でしょう。

そうすればとても温かい、人の得意な分野を尊重する社会になると思いますし、人との比較をしなくてもそれぞれのことをやれば良くなると思います。

(平成27918日)