「命とはなんですか?」と聞かれて「かけがいの無いものです」と答える人が多い。たしかに命は美しいものだ。苦しんでいる人がいれば損得なしに手を貸し、正月に初詣に行くときには綺麗に着飾って神様の前に威儀を正す。

赤ちゃんが誕生してしばらく経つとハイハイをし始めるが、実に命の素晴らしさを感じる。何でも興味を持ち、笑顔は輝いていて、一所懸命だ。そんな素晴らしい命は少しずつ自尊心を傷つけられ、侮辱され、いじめられ、そして時に自閉症に陥る時もある。「あんなにはつらつとした子だったのに・・・」と残念に思うことも多い。

なぜだろうか? 人はなぜ「命の輝き」を失うのだろうか?

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ほのぼのとした田園風景の中をローカル線がトコトコと走っている。実に温和で心温まる風景だ。でも、列車の中はそうでもなかった。一人の女子高校生が突然、車内で倒れ、それに驚いた乗客がとりあえず倒れた人を静かに床に寝せている。

ちょうど、その車両は最後尾にあり、車掌は乗客が倒れたのに気がついた。しかし、驚いたことが起こった。車掌は倒れた人のところにも来ないし、助けようともせず、車掌室にこもって「ただいま、乗客の方が倒れたようです」と放送し、それからおもむろに周りの人が介護している「意識のない」女子高校生に「大丈夫ですか?」と声をかけ、また車掌室に戻って「ただいま、乗客の方が倒れたので、この車両は次の駅で停車します」と放送。その通り列車は次の駅で停車したが、なにせローカル線で無人駅だった。

ある乗客が車掌からマイクをひったくるようにして取り上げ、「乗客の方の中にお医者さんか医療の関係の方はおられませんか?」と呼び掛けたところ幸い、お一人の看護師さんが駆けつけてくれた。

車掌は相変わらず車掌室に閉じこもり、司令室と連絡し、無人駅では救急車も来ないということで近くのやや大きな駅まで移動した。これは2015811日、つまりつい先日に起こった実話である。

車掌には「行動マニュアル」というのがあるのだろう。そこには「乗客を救助することは必要ない」と書いてあるのだろう。人は近くの高校生が倒れたら少しでも早く様子を見に行き、何とかしようと思うはずだ。でも、それは近くの乗客と応援にきた看護師さんだけであり、車掌は知らん顔。

車掌が赤ちゃんの頃に持っていた「人の心」を失わせたのは、「マニュアル」というオバケだった。事故がおこると「マニュアルが整備されていない」ことが問題になるが、マニュアルがあるということは人が心を失うことだ。

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私が100人ぐらいの研究所の所長だった頃、実験の無事を祈念するために初出勤の日に幹部と一緒に初詣に行った。会社の中堅社員であり、研究所の幹部だから、学歴も高く、常識も十分あり、さらに家庭では立派な父親がほとんどだった。

ところが、研究所の玄関に集まった幹部を見て、私は言葉を失った。これから神社に新年の祈願に行くと言うのに、幹部の格好たるや、ネクタイ姿はゼロ、汚い作業服にこれも汚らしい防寒具を着、靴は作業に使う泥まみれの安全靴という出で立ちだったのだ。

家族で初詣に行くときには、「そんな汚い格好はだめだ。正月だし、神社に行くんだぞ!」と父親は注意するだろう。その父親が・・・とガッカリした。

会社の歯車になると、人間ではなくなる。だから、立派な社会人も野獣になるということを感じた。

話は少し飛ぶけれど、私がクールビズを嫌いなのは同じ理由だ。人の格好をむやみに制限するというのは、日本人を機械にするようなものと感じるからだ。共産国でも普段の服装を規制するような国はいない。心正しく、人間らしかった日本人は絶滅するだろう。

(平成27812日)