(表紙はスモッグがひどかった頃の煙突掃除府のダンス)
発展した科学技術と活発な経済活動を目の当たりにして多くの人が未来に不安を覚えたのが今から50年ほど前だった。その頃、ロンドンでは大気汚染で1万人の犠牲者を出し、石油の枯渇が懸念されて価格は15倍に跳ね上がった。
国連は文明の継続を懸念し、多くの学者や国際機関が人類の継続的な発展に疑問を持ちだした。著者も当初、一連の動きに幻惑され原子力に身を投じた。しかし原子力研究を業としたこともあり「持続性」について慎重に考えてみると、「持続性」について世界が思考するのを忌避して短絡的な結論を出していることに気がついた。
特に日本では付和雷同による特定の空気(注1)が醸成され、思考や議論のような知を求める活動は反社会的として退けられ、今日に至っている。
なぜ、日本人は思考と議論を避けるのだろうか? なぜ、考えることをいやがるのだろうか? それは持続性ばかりではなく、政治、先の大戦の歴史的意義、環境保全、学問と社会など重大な問題をすべて空気に基づいて実施することになっている。
持続性に関する私の最初の疑問は「なぜ、生物や人類は持続してきたか」という問いであり、それが「私の時代に止まる原因はどこにあるのだろうか?」というものだった。日本人は哲学が嫌いである。しち面倒なことを考えるより、明日は明日の風が吹くとして気楽に生きていこうではないかという楽観主義が悲観論に転換したとも見える。
ここでは「持続性の哲学」と題して、「持続性」を哲学した。
(注1) 「空気」とは物理的な意味の空気ではなく、「その場の空気」に近い意味である。「合意」のプロセスを経ず、付和雷同的に村八分的空気を作り出し、議論を封じ、空気に従わない個人をバッシングすることによって、人の間の軋轢を防止し、時間を経過させようとするもの。
(平成27年7月3日)