180センチで筋肉隆々の男性は、いつでも150センチの優しい女性に乱暴して良いのだろうか? そんなことが「文明国」で許されるはずはない。でも、180センチの男性の方にも言い分がある。
「俺の方が強いんだ。強いのが弱い奴を自由にして何が悪い」という理屈である。人間が誕生したのは550万年前とされているが、その人間がある程度の集団を作るようになって、さまざまな矛盾が出てきた。それは都市ができはじめた1万年前ほどであると言われている。
強いものが強大な力を持ち、弱いものがその奴隷となり、強ければ弱いものを殺しても奴隷にしても良いという世界だ。実はこんなに野蛮な「身分制度」は動物のうち、もっとも「気高い」と言われている人間にしかない。他の動物はせいぜい、ボスがいるぐらいだ。
そして、私たちはアテネ、アレキサンダー、シーザー、チンギスハーン、ナポレオンを学び、「強ければ何でもして良い」という道徳をいやと言うほど叩きこまれる。日本人の多くが彼らを英雄と呼び、16世紀からの白人による有色人種の虐殺、征服を「大航海時代」と囃すのは、「強いものは何をしても良い」という強い洗脳を受けているからである。
それは1945年、第二次世界大戦の終わりまで続いた。日本は戦争に敗れたが、「たとえ死んでも、弱いものだから強いものの言うとおりにしなければならないというのではない」と世界に訴え、世界は日本人の310万人の犠牲を見て、「強いからと言って弱いものを好き放題にしてはいけない」という道徳律を認めた。
本来なら、アメリカン・インディアンが虐殺されている時に気がつかなければならなかったのだろうが、強いものに単に負けているだけでは大きな道徳は変わらない。180センチの男に押さえ込まれた150センチの女性は自らの命を失っても男の指を食いちぎらなければならないのだ。
かくして、世界は「力によらず独立する」という権利を獲得し、植民地はほとんどすべてが解放された。日本の戦争には若干の欠陥があるが、それより人類に対する巨大な功績を認めるのが「大きい歴史」を理解する私たちの知性である。
この知性に真っ向、反抗している反動勢力が二つある。一つはアメリカ、一つは中国で、ともに時代遅れだからまもなく衰退するだろう。アメリカのことはすでに多くの人が知っているが、中国が、第二次世界大戦の後、世界の植民地が次々と独立していくさなか、隣国だったチベット、ウィグル、内モンゴル、満州、そしてベトナムに侵攻し、今、また南沙諸島に向かっている。
中国は未だに「強いものは弱いものに何をしても良い」という考えだ。戦争で最大の功績のあった日本が、最悪の中国に頭を下げたり、その言うことを聞いたりするのは歴史の流れに逆行する。
(平成27年6月28日)