労働苦痛論や労働蔑視論のヨーロッパの影響を受けて、せっかく労働賛美論(これまで労働尊敬論と言っていましたが、どうも私の考えが賛美ではないかと思い、ちょっと変えてみました)でうまくいっている日本を無理矢理、ダメにしようとするシステムや考え方が蔓延して、それで人生を見失ったり、窓際族になったりする人がいます。残念です。

日本の労働観は、日本人自身も、また多くの外国人も評していますが、簡単に言うと「労働は苦痛ではない。人生の楽しみだ。労働で満足を得て、余暇があったり趣味があったりしても良いけれど、それは付け足しだ。一日、一所懸命になって働き、満足できる仕事をしてから、ちょっと遊び、夕方からは家族で団らんしながらお風呂を楽しむ」という感じです。

そこには「労働時間の短縮」、「定時」、「給料は多い方が良い」、「仕事の時間以外では仕事の話をするな」、「趣味を持とう」、「家族より個人」、など労働関係の法律や労使関係でつねに勧められるものはすべて含まれていません。

「労働はそれそのものが楽しみだった」とあり、「仕事が終わるのは、やらなければならないことが終わった時ではなく、満足できるものができた時」だった。若い頃の私もそうで、研究はそのものが楽しく、どんな小さなことでも分かった時や、解決した時の満足感は生活の中で最高だった。

仕事が楽しみだったから、時短は私には苦痛で、「自分の好きなようにやらせてくれ。会社からの義務は果たすから」という気持ちだったが、労働組合も勤労課も「仕事は悪」の思想に染まっていた。「定時」もいやだった。仕事が途中なのに5時になったらチャイムがなる。仕事の成果が問題なのに、なんで自分の時間を買うようなことをするのか、俺は人間ではないのか? と思った。勤労の若手は平気で「従業員の時間は会社が買っている」と言い、その間は指示に従えという感じだった。

このような考えは日本には無かったと思う。日本人は会社に忠誠を誓い、自分ができる範囲で努力することができる。他の民族のようにサボりたい、サボれればサボるというのとは違う、変な文化を持ってくるなという感じを持っていた。

40歳ぐらいまでは、給料は高い方が良いと思っていた。まだ貧しかったのと、家電製品も、住宅も、できれば車も欲しかったので、給料は高い方が良かった。でも、40歳を超えるようになると、持ち家を持って、家電製品も整ったので、「1ヶ月の消費金額が給料を下回る」ということになり、余るようになった。そうなると、給料が少し少なくても多くても毎日の生活は変わらなくなった。

少し余ったお金は貯金にまわるようになり、それからは「給料がいくらか」ということは考えたことはなかった。欲が少なかったのかも知れないが、「欲しいものもなければ足りないものもない」という生活になった。研究は苦しかったが、それが苦痛になることもなく、社会の発展とともに少しずつ人生も見えてきた時期だった。

なぜ、時短闘争、昇給闘争があるのだろうか? ヨーロッパ流に言えば、資本家は必ず労働者を搾取しようとし、労働者は常にサボろうとするという大前提は日本では成立しないのに、「搾取、サボり」という言葉が繰り返され、その結果、経営サイドは給料を抑えようとし、従業員はサボろうという「新しい概念」が生まれてきた。それが1970年代だったと思う。

元々日本にない悪しき「労働苦痛論」、「労働蔑視論」を持ち込み、職場を破壊したのは誰だったのだろうか? ヨーロッパが中世から近代に移るときの間違いをそのまま日本に移入し、間違っていなかった日本を間違った道に導いた。それが時短闘争、昇給闘争だった。

(平成27618日)