私は教育に当たっても、社会のつきあいでも「女性だから」というのを極力避けてきた。女性のハンディはあるからそれは考慮しなければならないが「女性だから認めてくれ」というのはあまり感心しないし、反対にレストランで食事をするときに女性がお皿に料理を取ってくれると私は「自分でとります。ありがとう」とやんわり断るようにしている。

男性にサービスするのが女性だ、女性は男性に媚びを売らなければならないという風習は私は大嫌いだ。男女がイコール・パートナーとしてつきあうことができれば初めて本当の男女の愛も生まれるし、明るい社会になると思うからだ。

かつてある外国の女性と仕事の上でつきあいがあった。その聡明でしっかりした女性は日本の女性にない独立した人格で、私はそれを感じて魅力を感じたことを覚えている。

ところで、最近の新聞の調査で地方議員の女性が少ないという記事を見た。たしかに田舎のおじさんの名誉職という雰囲気が残る日本の地方の議会で、女性の進出に大きな障害があるということは間違いない。

またそのおじさんが、女性議員が家事と仕事で忙しいというと、「そんなら家にいろ」というようなことを言うことも聞いている。でも、女性が社会に進出するときには物理的な障害は除くとして、少なくとも精神的には「批判に負けない」というしっかりした力が必要だ。

私は現在の女性議員の活動に不満を持っている。それは戦後、最初に活躍した女性政治家は「生活、男女、子供、健康」などを主たる対象にしたのもわかるし、第一、女性の地位向上が大きな課題だった。しかし、それから50年ほどたって、現在では女性の防衛大臣などもでる時代である。女性だからではなく、女性と男性は同じだというスタンスを女性議員がとってもらいたいと希望している。

女性政治家は「生活者目線」というのから卒業して、「一人前の政治家」として「政治、軍事、経済、国際、産業」についての十分な見識と意見、方針を持ってもらいたいと思う。というのは、「生活」というのもっとも重要なものはそのベースとなる、経済、産業などの政策によって大半が決まり、それ以後は単に「分配」の問題になるからだ。

もしかすると、まだ女性議員は「男性が稼いで、それをもらうだけ」と思っているような感じもする。「手当がほしい」という前に、政治家は「手当を誰がどうして生み出すか」ということを決める力がある。

もし、現在のように女性議員が自ら活動する範囲を自ら制限するのが続くなら、「女性だから」という議員の数を増やすことはできない。新聞などは欧米の例を引いて、「女性議員が多い方が良い」と言っているが、それは「女性議員」と区別しなくてよい活動内容に限るのではないか?

(平成27223日)