世界史の骨格はほとんどヨーロッパの学者が構築して、それを他国の歴史学者が使っている。だから、つねに「ヨーロッパの視点」であることは間違いない。それに明治維新以来、日本の学者はヨーロッパに「勉強」に行き、そこで学んだものをあたかも自分が作り出したもののように大学の講義で教えた。

ちょっと洒落た学術的な文章、特に文科系の論説などでは、かならずと言って良いほど、プラトンやアリストテレスのようなギリシャの学者から始まり、カントやヘーゲルのように近世のヨーロッパの学者の名前が出てくる。

「カントは・・・」で始まるのは私たちの学問がヨーロッパの視点で作り上げられていることがわかる。歴史分野でそれに異議を唱え、自ら体系化した歴史を書いているのは岡田先生ぐらいなものではないかと思う。別にアジアからの歴史にこだわる必要はないが、全世界的な視野での歴史はやはりアジアから出るのではないかと思う。

さて、人間の歴史、特に有史以来の人の振る舞いを見ると、なんといっても紀元前2000年から1200年にかけてコーカサス山脈北方(黒海とカスピ海の間)の草原地帯に住んでいたアーリア族の移動が大きな事件だった。移動を始めたのは、寒冷化、食糧不足などが原因とされているが、いずれにしても、アーリア人はペルシャ、トルコ、イランなどの中東地域、ギリシャ、ローマ、カルタゴなどの地中海国家、フランス、スペイン、ルーマニア、ドイツ、イギリス、フィンランドなどのヨーロッパ、ロシアのスラブ民族、中央アジアの諸民族、そしてインド人になったのだから、小さな地域から世界の半分ぐらいに移動して繁栄したと言える。

宗教も同じで、おそらく紀元前1000年ぐらいにアーリア人の中に「原始的宗教」があり、それが紀元前600年ぐらいに西からギリシャ神話、ユダヤ教、ゾロアスター教、そして仏教を生み、さらに後世にキリスト教、イスラム教に発展したので、世界のほとんどの宗教はアーリア系であることが分かる。

アーリア人の第一次(紀元前1500年前後400年)の移動後の彼らの歴史を見ると、1)肌が白く、2)背が高く、3)鼻筋がとおり、4)他の民族は自分たちより下位と信じていて、5)他人のものは自分のものという確信がある、ということでまとめることができる。

まず最初は、アーリア人がイラン、トルコ、ギリシャなどに侵入していくとき、「ドケドケ!」という感じで、自分たちが新しく侵入していくところにそれまで住んでいた人は皆殺しにしても別に良心の呵責など感じなかった。もともとギリシャあたりに住んでいた人は北から来たアーリア人に押し出されて地中海に逃げた。

インドでは新しく侵入してきたアーリア人が「肌の白いのが最上級」というカースト制を作り出し、支配を固定し、最上級の中からお釈迦様も生まれた。

なにしろ「他人のものは自分のもの」、「自分が正しいと思っていることは正しい」という厄介な信念を持っているので、戦争にはなるし、思想も強制してくる。ギリシャのポリスも戦いに戦いを続けたし、有名なマケドニアのアレキサンダー大王とペルシャのダレイオス大王のイッソスの戦いにしても、所詮、アーリア人同士の内輪もめである。

マケドニアがヨーロッパ、ペルシャが中東なのでなんとなくヨーロッパとアジアの戦いのように見えるが単なる内輪揉めで、それはローマとカルタゴの戦いも同じだ。

アーリア人の中にときどき、アレキサンダー、ハンニバル、シーザー、ピュートル大帝、ナポレオン、ヒットラーなどのように「他人の土地を多くとった人」を「大盗賊」と呼ばずに「英雄」と呼ぶ。これこそアーリア人の真髄なのである。

(平成27118日)