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17歳のマララさんにノーベル平和賞が与えられた。日本の反応は「素晴らしい勇気を持った彼女に与えられたのはよかった」という反応だ。でも私は違う。テレビの解説でもやや近いことを言った。

二つの疑問がある。一つは「ノーベル賞は神様が決めているのではなく、人間が決めている」ということだ。二番目は「平和というのは他人の価値観を認めることだ」と思う。

かつてポルトガルが世界の半分を制覇し、そこの国民を奴隷状態にしたことはよく知られている。東チモールというところをポルトガルが植民地にした時に、「ポルトガル人は自由に現地の女を犯して良い」というお触れを出し、暴行することを奨励した。

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それによって二世が大量に生まれ、男の子にはすべて二世という称号(父の名前の一部)と銃を与えた。のちのこの集団が「独立戦争」をする。つまり「独立」とは名ばかりで、直接的な植民地が無理になったので、「父がポルトガル人」というプライドを持たせて、独立させた。

この時の英雄にノーベル平和賞が与えられた。歴史的には完全に有色人種を支配し、劣等民族と考えた白人の策謀であり、ヨーロッパとしては後退を続けたアジアに一矢を報いる作戦の一つで、それをノルウェーのノーベル賞委員会がやったことだ。

アウンサンスーチー氏の時でも、ビルマ(今のミャンマー)を植民地にしていたイギリス男性と結婚し、イギリスで学校を出て、祖国ミャンマーを弱らせる作戦に加担した彼女にノーベル賞をあげた。文盲が減り、所得がある程度まで行けば「民主的」というのが国を栄えさせるが、それまでは投票などを行うと、国が大混乱する。

このように、ノーベル賞はつねに「有色人種を圧迫した人」に与えられる。今回もマララさんがやったことはヨーロッパから見ると正義で、都合が良いけれど、パキスタン、特にイスラムの考えでは正義ではなく都合もわるいのだろう。

自分が正義と思うことを他人に強制することが戦争に繋がる。その意味では、マララさんの行動はその社会では「反社会的行為」である可能性がある。人はみな、自分で考えている。そしてそれが自分と違っているからといって、強制力を使ってはいけない。

今、イスラムに「過激派」という名称の団体が多いが、これはアメリカやヨーロッパがイスラムの石油利権を求めて悪行をしたことに対する反発で、イスラムの文化はその地方、その風土、その発展段階でそれなりに意味のあるものとして私たちは受け取らなければならない。

日本でも主君のために死ぬことや、人形浄瑠璃で描かれている主君のために我が子に手をかけることが「義」とされていた。

また、日本人はノーベル賞というとまるで水戸黄門が「この印籠が」というのと同じで、絶対的な権威が決めている、神様が決めていると錯覚しているが、ノルウェーのノーベル賞選考委員会(平和賞はノルウェー)は、ヨーロッパの利権を守ろうとするいかがわしい団体である。

日本人を貶めるための「宣伝映画」を作り、おしぼり(日本の発明)を使ってケーキで顔を拭く日本人を揶揄したのもノルウェーである。

(平成261014日)