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寝室の天井が斜めになっているとガンになる、廊下に段ボールが放置されていると免疫力が落ちる、お酒は一日2合ぐらいがもっとも長寿だ・・・80歳代の人は血圧が高い方が長生き・・・なにをどう考えたらよいかわからないのが現代の「健康学」だ。

 

血圧も120が良いと言われていたのが、ちょっと調査を変えると突然、150になり、こともあろうにコレステロールは多い方がよく、低いとガンの危険があるという。単純に考えると「どうなっているの」と思うが、このシリーズでは全然、驚かない。

 

人間全体は当然だが、人間の体を作る一つ一つの細胞ですら、深い活動をしていることがだんだん、明らかになってきた。第一、人間の細胞は足の細胞も手の細胞も切り取って顕微鏡で観察するとまったく同じだ。それなのに足の細胞は自分が足であること、手の細胞は自分が手であることを知っていて、足を動かそうとするとちゃんと足が動く。

 

残念ながら、現代の生物学は「人間の足の細胞と手の細胞のどこが違うのか」という質問にも答えられない。体はまだ少し解明されているが、普通の社会生活ができる人が突如として殺人をするような心の動きですら、予想できないのだから、何から何までわからないと言った方が良い。

 

人間は甘いものが好きだ。それはかつて甘いものが手に入らなかったので、甘いものを食べられる時にはつい手が出ると解説される。人間は目標をもって生きなければ空しい。だから仕事があるのは人間にとって大切だと言われる。

 

でも、味覚のような五感は強い本能が及ばないので、そんな昔のものが現代に生きているはずもない。また日本人は働くことが好きだと思われているが、江戸時代は違うし、現代のアメリカ人も、ブラジル人もまったく違う。もう少し人間は複雑だ。

 

五感にしても、もっとも鋭い五感は「触感」で、だれか嫌な人に肌を触られていたら、食べている味はわからない。それより味は臭覚(鼻が詰まっていたら味がわからない)、視覚(目で見たらおいしそうに見える)、聴覚(板前が口上を言われると味がまずくなる)などがあり、本当に弱い五感だ。でも、人間の死命を制する「食べる」ということがそれほど弱いのか、まだその理由は分かっていない。

 

人間というものでわかっているものが一つある。それは「人間の体、頭、心は簡単な構造と思っていたのだが、体自体、頭自体、心自体が複雑で、さらにそれが独立ではなく、全体はとうてい明らかにすることができない」ということだ。つまり、「これが良い」とか「これが悪い」というのは、全体には影響を及ぼさないが、その中でただ一つだけちょっと変えることができるというぐらいなのだ。

 

日露戦争の旅順要塞攻撃で功績のあった乃木希典将軍は、冬の寒い朝でも裸になり、冷水摩擦をして身体と心を鍛えた。かつての武士は弟子入りすると廊下をふき、水垢離をしながら腕を磨いた。現代のように生ぬるい教室で「やさしく教えます」という学問がまったく人間を高めてくれないことも確かである。

 

科学は一つ一つを地道に解明していこうとしているが、人間というものがわかるまでには、おそらくまだ1万年はかかるだろう。文学はギリシャ文学以来、読むことができないほどの小説や戯曲を世に出しつづけ「人間とは何か?」を問うてきたが、まだ志半ばにもなっていない。

 

その中で唯一、すこしだけおぼろげに人間という姿を見せてくれるものがある。それが「伝統」である。伝統は人の体、頭、心に長く訴え続け、膨大な人が「それは正しいんじゃないか」として残してきたものだ。だから一人の人間が生半可な頭で「これが良い、あれは悪い」と考えるよりずっと優れているのは当然でもある。

 

それよりさらに適切と思われるのが「自然」である。自然は55千万年のトライアンドエラーの結果、正しいものを選択してきた。一つに「接着材」がある。これだけ科学が進歩しても自然界にある接着剤と比較したら、人工的に作られたものは実に浅はかなことしかできない。それは「時間と試験の数」がものすごく違うからだ。

 

自然は常に正しい、次に伝統は正しい。そのずっと後に科学的に明らかになったことがあり、さらにそのあとに「自分にはこれが都合がよいから正しい」というのが並んでいる。

 

(平成2684日)