佐世保の高校生の事件はとても痛ましいもので、被害者はもちろん、加害側もどうしようもない辛さの中にいることと思う。もともと九州の西にあるこの市は風光明媚で、穏やかなところだ。外から見るとアメリカ軍の基地があり、なにか荒れている印象を持っている人もいるが決してそうではない。
私が知っている高校生や高校の先生方は礼儀正しく、人格もしっかりしている。街も整然として気持ちがいいところだ。だから、今回の事件で佐世保の人たちがさぞガックリ来ているかと思うと残念な気がする。
ところでニュースでコメントもしたけれど、科学者としての私はいつもこのような事件の時、科学が手助けできなかったことを無念に思う。すでに脳科学、精神病治療などこの方面の科学の進歩は大きいのだから、なんとか事前に事件を起こさないようにするとか、治療の方法はなかったのだろうかと思う。
原発の事故の時もそうだったのだが、科学自身も問題を起こすし、科学の進歩が不足して事件を止められなかったり、災害を未然に防ぐことができないことがある。それを科学者が「仕方がないじゃないか」と思わずに、全力で被害を最小限にするように努力し、かつ再発を防止するために努力をすることが大切と思う。
原発事故の時に原子力や放射線の専門家の動きが鈍かったように、今回も普段から「脳科学の進歩は素晴らしく、なんでもできる」というような感じのコメントをしているのに、事後の解説ばかりして、「なぜ、この事件を防ぐことができなかったのか」という反省が少ないように思う。
科学は自然を解明するだけではなく、それを社会に役立つ形で提供できなければならない。その点で、このような事件が起きたとき、科学者、医療関係者は「なぜ、防ぐことができなかったのか」という視点でコメントすることが、科学の正常な発展に役立つし、社会も科学の進歩を支持してくれるだろう。
原発事故を起こしても言い訳だけ、被曝量を隠したりする。洪水や土砂災害を起こしても、それを自然の責任(記録的豪雨など)として、治水になにが問題だったのかという反省があまり聞かれない。今回の事件を事件としてではなく、科学者は自らの働きが不十分だったと思うことによって、社会は科学を支持してくれると思う。
(平成26年8月4日)