もう50年ほど前だったと思うけれど、「サスペンス映画」というのが流行したことがありました。アルフレッド・ヒッチコック等の映画監督が活躍して、「鳥」とか「サイコ」などの名画を連発したころです。私は少し種類が違うのですが、ヒッチコックの「ハリーの災難」が喜劇調でとても好きでした。
ところで、若いころの私は「サスペンス」と聞いてもそれが何を意味するのか分からず、映画を見てみるとミステリーもののような気がしていました。後にサスペンスというのが「どっちつかずの状態」と言う意味で、それが人間を苦しめたり、恐怖に陥れるものだということを知ったものです。
つまり、本当の不幸が来た時より、不幸が来るのではないかという中途半端な状態の方が、本当の不幸より辛いということです。
人生を気楽で、笑いが絶えない毎日を過ごせたら、どんなに良いでしょう。でも、もともと気楽で、笑いが絶えない人生なのに、辛く、ケンカしながらになることが多いものです。そして、それが不可抗力なら仕方がありませんが、何かの錯覚でわざと辛い人生にしているのだったら、すぐ思いなおせばよいのだから簡単なようにも思います。
先日はこのブログで「取り柄がないほうが良い」と言うことを書きました。「取り柄」は他人を痛め、自分が苦しむものですから、そんなことを気にせずに、「生きているだけ」、「他人にデディケーション」、そして「額に汗して」ということで十分だと思うのです。
今日は少し別の視点ですが、もう一つ「人生を苦しめるもの」を考えてみたいと思います。それが「サスペンス」です。サスペンス・・・つまり、どっちにも決まらずに中途半端になっているもの・・・は人間の心に大きな負担を与えます。それが決まるまでの時間、「どちらになるかな」、「こっちになったらどうしよう」と際限なく頭を巡ります。
頭の中を何かがぐるぐる回っているというのは、脳神経の細胞の間を絶え間なく神経伝達物質が流れることを意味していますので、それだけで疲れてしまいます。ついにその神経伝達物質が不足すると、考えはまとまらなくなり、考えたくなくなり、混乱し、気分が悪くなります。
それは当然で、頭の中だからはっきり自覚できませんが、「体が猛烈につかれているのに、まだ運動しようとする」と言う状態と同じだからです。徐々に体力が失われ、綿のようにつかれ、どうしようもなくなり、ついに倒れます。それと同じ状態がサスペンス状態のまま時間が経過する時の頭脳の状態なのです。
「決まっていない」というのが「自分が原因している」場合と、「他人や社会が決めてくれない」場合の二つがあります。自分が原因している場合でサスペンスに陥るのは「少しでも得をしよう」、「どちらが得か少し後に決めよう」などと考えているからで、「少しぐらい損をしても言い」と思えば、すぐ、今、決めることができます。そのほうがサスペンスで苦しむよりずっと「得」です。
また「他人や社会が決めるまで待たなければならない」というのはちょっと辛いのですが、その時には「悪いほうで決まった」と思い込んでおけば、それより悪いことにはなりませんので、思いがけなくプレゼントをもらったような気になります。入学試験などが典型的ですが、「落ちた」と思っていれば気が楽です。
もっと簡単な例が部屋の片づけで、面倒だと思って乱雑な部屋で生活していると、頭の中は「あれも片づけなければ」とか、「これはどうしよう」と常に考えているので、頭が疲れて結局は辛い人生へと進みます。
「靴を玄関に出しておくな」というのも同じで、玄関のそばを通るとき、無意識に「どの靴を履いていこうかな」と思うので、気が重くなるのです。靴を選ぶのが楽しいのは、いざ、外出する瞬間だけで、いつも見えるのは心の負担になります。
私がこのことを知ったのはサスペンス映画の意味が分かってしばらくたってからだったと記憶しています。それ以来、できるだけ即断即決、損してもあまり気にしないという人生を送り、その分だけ辛さが減ったような気がします。
学生に「レポートは期限を考えず、今からやったほうが良い」と言うのですが、学生はいつも提出期限を考えています。それが癖になると期限が来ないと力がでないということになりますが、逆に今すぐやるという習慣がつくと、すぐできるようになり、なんでも片付いているのですっきりした人生の時間を過ごすことができます。
1)できるだけ、宙ぶらりんにしておかない、
2)決めた結果が少し悪くても気にしない、
3)どうしようもなくなっても、自分が生きていることで満足する。
そんな感じです。
(平成26年4月26日)