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安倍首相が教育改革の一環として「日本と日本人のアイデンティティー」という言葉を使った。Identityという単語は結構、英単語でもむつかしく、私の経験では最初にアメリカに言った時にホテルで”identify”という単語を使われて聞き返したことがある。

 

初めて外国に行ったのだから当然と言えば当然だが、それまで日本のホテルの経験しかなかった。ホテルにつくとフロントに行って「武田邦彦です」というと、向こうがパソコンで名前を打ち込んで≪お待ちしていました≫という。それしか経験していなかった。

 

ところが、私が”Kunihiko Takeda”と言っても、何もしてくれない。なにか”identiとか言っているなという感じだった。実は身分証明を求めているのだが、外国に行ってもっとも難しいことに食事の注文と、思いがけないことを言われたときにその意味を理解することだ。英語ができる、と言ってもそれは「相手の言うことがほぼ予想される」とか「日本文化の中に相手の言うことの概念がある」という場合だけで、「自分が知らないこと」、「今までに聞いたことのない概念」などを言われると、わからない。

 

つまり、外国語とは「わかっていることはわかるが、わからないことはわからない」ということだから、これをもって「外国語を知っている」と言えるのかどうか怪しい。

 

しかし、安倍さんの言う”identity”というのはちょっと違う。辞書を見ると、
1 自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。「―の喪失」
2 本人にまちがいないこと。また、身分証明。

 

とある。また、アイデンティティー・クライシス【identity crisis】という精神的な疾患があって、「自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。「自分は何なのか」、「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。」とされる。

 

つまり、「主体性、継続性」に少し「誇り」が入っているという感じで、先回のブログで言った「日本人たるゆえん」というような意味だ。「確立した日本と日本人」が一番近いかも知れない。

 

でも、「日本」を教育するのに、もし「日本語にない概念」を教育すると、それは極めて難しく、ほぼ不可能だ。外国語で理解できる範囲の経験を書いたように、日本語にない概念なら、それは「日本的なもの」ではないからである。安倍首相がこのような英語を使ったのは、安倍さん自身の日本に対する理解力が不足していることと、安倍さんのブレインが「アメリカに染まって日本のことを良く知らない」ということもある。

 

もう一つ踏み込めば、日本には実はidentityという概念がないということも考えられる。もののあわれ、大和魂、武士道、和を以て貴しとなす・・・というのはあるが、「日本とは何か?」、「日本人とはなにか?」と考えたことはない。生まれてこの方、日本列島に住み、どこに行っても日本人しかいないのだから、「俺は誰だ?」と悩む必要はなかった。

 

いや、歴史や文学を紐解けば、その端には書いてあるだろう。でもそれは日常的でもなく、必要でもなかったので、概念は発達しなくなった。ペリーが浦賀に来て日本が世界に対して開国したほぼ150年前から徐々に必要となった概念である。

 

今では当たり前のように使っている「国家」、「民族」というような言葉も、明治の初期にほとんどが福沢諭吉によって作られた。それまで日本には「国家」も「民族」も言葉がなかったのだから、アイデンティティーもこれから作らなければならないかもしれない。

 

でも、最近ではグローバリゼーション、セキュリティー、コンテンツなど本来の日本語にない概念は福沢諭吉がいないから英語のまま使っている。この方が私がホテルで戸惑ったようなことはなくなるので、積極的に英語を使い、日本語を作らないという方針もある。

 

ただ、私は「日本とはなにか?」、「日本人は外国人と何が違うのか?」、「日本人は日本の歴史を知ることが大切か?」、「日本独自の文化は守るべきか?」という議論をして、ある程度の合意と認識を得ておく必要があると思う。

 

2014年2月1日の朝の番組を見ていたら、そこに出ていた「文化人」は全部が「日本を強調するべきではない」、「日本の歴史は不要だ」という従来の「左翼知識人」の路線を踏襲していて、「日本は大切だ」ということを言うと「空気に反する」という極めて日本的なコメントをしていた。

 

日本というものをはっきりさせずに、空気を作り、タブーで守ることこそ、そこで言われていた「主体性を持った日本人」ではない。その点で、このような文化人が大勢を占める中で、日本の未来に資する議論をするにはまだまだ道が遠いように思った。

 

(平成2622日)