戦争の後、私たちは「平和教育」を受けた。その基本は教育基本法の第一条(教育の目的)・・・教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない・・・であった。
だから私たちはまず「正義を愛する」人になっているはずだ。「正義」と「誠実」は少し違うけれど、正義を愛する人は誠実でもあるはずだ。
哀しくなることがある。なんどもなんども「自然放射線とかラジウム温泉の被曝と、1年1ミリの原発からの被曝は別々に考えなければならない」ということを言っているのに、原発を再開したばかりに、あらゆる誹謗中傷を伴ってなんとか「ラジウム温泉があるから、原発の被曝も平気だ」と言ってくる。
ラジウム温泉の被曝も安全とは言えないが、それとは別に原発からの被曝で、日本人全体で1年8000人の犠牲者までは認めようという「国民の合意(法令のもとになる数値)」があり、それに基づいて多くの科学者が集まって「1年1ミリで1年8000人」という数値を決めている(審議会など)。だから、1年1ミリは民主主義と法治国家での重要な約束であり、ラジウム温泉がどうのという話とは全く違う。
「正義を愛する」という認識がとても薄いのだろう。
日本人は戦争犯罪をしたという。「なにが戦争犯罪ですか?」と聞くと、「東京裁判で有罪になっているから」という答えが返ってくる。「東京裁判には原爆を投下を決定したアメリカのトルーマン大統領や、一般市民の殺害を目的とした1945年3月10日の東京大空襲を指揮したル・メイ将軍は東京裁判の被告になっていないですが」と聞くと、黙る。正義より「強いものに巻かれろ」と思っている。
原発被害の補償問題でも、「自治体など」強い機関からの請求には東電は応じているが、個人からの請求は拒否し、それを裁判所も支持する。「強いものが正義」という日本の正義感とは違う教育を受けている。
誠実さというのは正義を愛する心からくるが、原発を実施する前には「原発は安全だ」と言っていた人が、いざ、原発を建設する段階になると「東京の付近はダメだ。原発は危険だから」という。民主党がその典型だったが、「決まるとき(投票前)に言ったことを決まった後(投票後)に覆す」というのは「正義」とか「誠実」とかいう尺度から言うともっとも「卑劣」な行為である。
戦争に負けて私たちが目指した社会が、教育基本法第一条に書かれていた。だから、これは私たちの希望であるはずだ。子供たちに教えることにウソはない。でも、現実にはいとも簡単に誠実さを捨てる人ばかりで、その点では戦後教育は失敗し、「正義を愛する」人はいなくなったのだろう。
もう一度、私たちは戦後の初心に帰り、子供たちにも「正義を愛する心」を教育し、私たち自身も「正義を愛する心」を取り戻したいと私は思う。
(平成26年1月10日)