昨年も学校教育でイジメや体罰など暗い話題が多かった。でも、これは「大人が混乱している社会」を映したもので、教育分野の乱れが原因しているのではないと私は思う。
日本の「学校教育」は算数とか国語のような「学力」を磨くことが主たる目的ではなく、正義感や誠実さなどを教えることだ。それは私が勝手に決めたのではなく、教育基本法の目的(ひとつ前の法律で、現在より簡素に書いてあるので、ここで示す)がそうだからだ。
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
最初の「人格の完成、社会の形成者」は目標で、そのための具体的に教えることは「真理と正義を愛する心、個人の価値をたつとぶ心、勤労と責任を重んじる心、そして自主的精神」である。
真理が何であるかは学問で教えられるが、それを愛する心は勉強しただけではダメだし、正義を愛するためにはズルなどをしないように厳しく指導しなければならない。文科省がどうしても実施したいと強引にやっている全国学力テストに私は批判的だが、その理由は、現実に全国テストをすると、校長先生が間違った答えを書いている子供の答案に黙って正解を指さしたりしているのだから、正義を愛する心とは正反対になるからだ。
また、個人の価値を尊ぶには、自分と違う意見を尊重するなどであり、「仲間はずれ」や「みんなで環境を良くしよう」などは反する心だ。「みんなで一緒に」とか、「優しい心」、「絆」などの概念とは全く違う。どちらかというと付和雷同しない自立した人材を求めている。
「イジメ」の根本は「個人の価値を尊ぶ」ことに不足しているからで、「空気を読む」とか「絆」という概念は「個人を殺してみんなに従う」ということになり、イジメにつながっている。
でも、実際は文科省や教育委員会は教育基本法を守ろうとしない。日本社会も「成績の良い子のいる学校」を「良い学校」と思っている。日本人の一つの特徴と思うが、「建前」としては「人格の高い人」を教育でということを示して、その実は「学力だけ高ければズルでも良い」という意識が底辺にあり、実際にもそのような教育をしている。
これでは教育にひずみができるのは間違いない。また現在の教育が最も成功した人たち(たとえば東大卒業者)が人格が低く、御用学者になる理由も良く納得できる。私の個人的見解だが、誠意がなく自分勝手で勉強だけが得意な人の集団は衰退する。だから日本は衰退している。
真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた人たちの日本に住みたい!と私は思う。このブログは、「真理と正義を愛し」、「個人の価値を尊び」、「勤労と責任を重んじ」、「自主的精神を持って」、「楽しく幸福な人生を送りたい」が良いと思って書き進もうと思う。それは「教育基本法」に「教育目的」として長く明記してきた内容だから、多くの日本人が賛成しているはずで、私の独断と偏見ではないからだ。
日本の教育の問題を解決するには、まず文科省と教育委員会がこの教育目標(法律)を守る覚悟をし、学校教育をこのような目的にそって行うことで先生と保護者が合意し、現実に実施することだ。
しかし、建前と現実のかい離の大きい日本で、本当にこのような教育をするには、かなり繰り返して議論しなければならず、現在の教育は遠く離れている。この問題は実に奥が深く、「平和憲法と自衛隊」の問題も同じで、あまりに美しい建前を書くので、それを全く実施できず、実態はかなりかけ離れるということになる。
でも多くの日本人の心の中に、自分たちのいい加減さ、つまり平和憲法や教育基本法に綺麗なことを書いておかないと歯止めを失う危険性があることも同時にわかっている。
教育問題にしても、個別具体的な議論も必要だが、常に大きな意味を考ええて議論する精神的な強さを日本民族が身に着けるようにしなければならないと思う。
(平成26年1月3日)