「51tdyno.382-(13:25).mp3」をダウンロード

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州国建国、そして上海事変までは「日本は勝つ見込みのある戦争をした」と言われる。この議論では、日露戦争が勝つ見込みがあったかどうか不明で、どちらかというと「予想外の大勝利」だったと思う。戦力としては圧倒的にロシアが上だった。

それでは大東亜戦争は負けるに決まっている戦争だったか?

今度は日露戦争のように一カ国同志の決戦ではなく、世界的に見れば、日本、ドイツ、イタリアの枢軸側と、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国側の戦いだった。

だから勝敗は世界的な情勢と日本だけの場合の二つに分かれる。仮にドイツがヨーロッパ戦線で勝ったとすると、イギリスとロシアはかなり大きな打撃を受けるので、アジアと満州千島列島に軍隊を派遣する余裕がないか、かなり削減するだろう。

ヨーロッパ戦線の方がかなり早く始まっていたから、そこが消耗戦になれば、イギリスは日本にコテンパンにやられたのでアジアの戦闘をする力は失うし、フランスはドイツに占領されて国がなくなったから、これも戦線を離脱する。

そうなるとアメリカはヨーロッパ戦線に全力を注ぐか、それともドイツと日本と講和しただろう。戦争が終わった後の今では「ドイツが負けた」ことを知っているが、ナチスの力は強く、戦前にドイツは必ず負けるなどと予想することは困難だった(開戦3日前、ドイツのモスコー包囲作戦が破綻したが、それは開戦を止める情報にはならなかった。スターリングラードの戦いは開戦の翌年に当たる)。

それでは日本の戦いはどうだっただろうか。イギリスは緒戦でシンガポールが陥落、戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍の雷撃で沈没して戦闘能力をほぼ失った。だから「日米決戦」になった。

日本がアメリカに勝利できた局面は3回あった。

第一回はハワイ奇襲の時だ。この時、第一波、第二波の日本の航空機の攻撃は大成功を収め、ハワイのアメリカ軍は戦闘機を失い、戦艦は機能せず、抵抗ができない状態にあった。

第三波の攻撃がおこなわれていたら、ハワイの施設は石油共々完全に破壊され、回復には5年ほどを要しただろう。

日本海海戦で主戦場で日本海軍が勝ったのに続いて、夜間の雷撃艇の攻撃でロシアのバルチック艦隊は全滅した。戦いは勝ったときには敵を徹底的に殲滅しておかないと反撃される。

敵の捕虜が捕虜になることができるのに、国際法的に厳しい制約(上官がいて、白旗を掲げ、武器を携帯して投降する)があるのはそのためだ。

ところが、ハワイ奇襲では、日本軍は予定していた第三波攻撃をしなかった。これはすでに当時の日本軍が官僚組織になっていて、戦闘には向かなかったことがあげられる。

具体的にはハワイを攻めに行った連合艦隊司令が官僚だったこと、そのような陣容を作らざるをえなかった事による。

第二のチャンスは、日本がイギリスの東洋艦隊を撃破し、シンガポールを占領した後、海路、インドのイギリス軍を攻め、インドに独立を保証してインド軍とともにインドからイギリス軍を追い出せば、インド方面の作戦は終了していたと考えられる。

後のビルマ戦線などの失敗は起こらなかっただろう。ここも、日本政府がこの戦争を総力戦としてみていないところにあった。アメリカは日本本土を攻めるが、日本はアメリカ本土を攻める計画を持っていなかったからでもある。

そして第三が、ミッドウェー海戦の戦略上の失敗だ。かなり軍事的になるので、くわしくは書かないが、ミッドウェー海戦の時、戦艦大和、戦艦武蔵は機動部隊の近く(500キロぐらい)にいたが日本機動部隊に同行して、ミッドウェーの基地を砲撃していたら、勝敗は逆転した。この後のフィリピンのレイテ湾攻撃もそうだったが、ハワイ奇襲、ミッドウェー海戦、そしてレイテ湾攻撃のすべてにおいて官僚機構のひ弱さが戦争ででたことが敗因となった。

大東亜戦争は無謀な戦争ではなく、日本海軍の官僚化がもたらした失敗だったのである。これも反日日本人の宣伝をどうしても納得できない周辺の人たちが、「日本は負け戦を判って自暴自棄の戦いに打って出た」と指摘しているが、それも疑問である。

(平成2599日)