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満州国を建国して、とりあえず日本には次ぎに何かをする必要はなくなった。なにしろ独立は確保したし、千島列島から南洋諸島までの太平洋の列島と、朝鮮・満州を持っていたのだから、万全だ。

ところが、ここで歴史が終わった後にみると「失敗」だった行動を日本がした。そのころの中国は「蒋介石の国民政府(南部)」、「毛沢東の共産中国(山奥)」、そして「群雄割拠の北部地域」に別れていた。「蒋介石の北伐」というのが有名だが、その「北伐」というのはもともと南部を中心とする国民政府が満州国ができる少し前に北伐して、北京から万里の長城までを支配し、一応、中国を再統一した。

しかし、北部の支配は緩く、満州国ができるとそのあまりの発展と国民政府の重税などが不満要因となり、中国の北部は日本と連携して独立を測ろうとする動きが盛んになった(華北分離運動)。

今でこそ、判ることだが、この動きに乗ってはいけなかった。満州は中国ではないので、日本が中心となって新しい満州国を作るのは問題がない。でも中国北部は中国自体なので、そこに踏みこむのはかなりの覚悟がいる。

でもそれは今だからこそ判るのかも知れない。中国という地域は「国」があるわけでは無く、「三国志」で判るようにあるときには一つの王朝が統一し、あるときには数カ国に別れていたのである。今でも西安と上海の男女が結婚するとお互いの言葉が通じないので、北京語で会話をするというような国だ。日本の常識で判断するのも間違いを起こす。

華北分離の動きと並行して、万里の長城付近の満州国境ではたびたび日本軍と中国軍の衝突が起きる。これが後に共産中国の方針(国民政府と日本を戦わせて、共産中国が勝利する)に塩を送ることになり、抗日戦線へとつながる。

これまでの反日日本人の歴史によると「日本軍部(関東軍)の暴走」ということになっているが、中国の華北分離の動きに対する日本政府の計画は、「第一次から第三次の北支処理要綱」が閣議で決まっていて基本的には日本の華北の権益を守る立場だ。

数次の戦闘の時に関東軍は時に万里の長城を超えて中国側に攻め入るが、昭和天皇のご命令もあり、中国の土地からは撤退している。日本軍の動きを見ると、「理想的」ということはできないが、「上出来」ぐらいの自制心はもって作戦をしていることがわかる。

このような場合も、反日日本人の解釈は「中国軍(統一されていない軍の集合体)は何をやっても良いが、日本軍はあらゆる面で理想的でなければならない」という前提があるので、その結果「軍部の独走」ということになるだけだ。

これは「イギリスやアメリカはどんどん他国を占領しても侵略とは呼ばないが、日本は僅かでも他国に踏みいれば侵略だ」という反日日本人の歴史家の考え方に共通する。そして、この二つ(軍部の独走、侵略戦争という二つ)が日本人の頭にこびりついている。

この時期、数多くの事件(中国側による日本人の大量虐殺事件、要人の狙撃事件、爆破事件など)が相次いで、そのたびごとにカッカときた両軍が戦っているが、おそらく共産中国かコミンテルン(モスコーに本拠地を置く世界共産化本部)の工作だったと考えられる。

奥地にこもっていた共産中国とコミンテルンは、北京や南京付近で日本軍と国民政府(蒋介石軍)が消耗戦をやればやるほど有利になって行くので、盛んにゴタゴタを作った。日本も国民政府に「防共協定」を提案しているが、アメリカやイギリスを巻き込んでソ連と共産中国に対抗する連合を作る力はなかった。

その意味で、当時の中国情勢では、コミンテルンが一枚上だったことが判る。この情勢は大東亜戦争開戦まで続き、日本の敗戦につながっていく。

いずれにしても、日本は「防共協定と中国から徐々に撤退する」という絶好の機会を逃した。北京付近(北支)でゴタゴタしているうちに、ドイツの陰謀に引っかかって上海事変が起きる。

共産中国と鋭く対立していた蒋介石の国民政府は、日本を徴発して「抗日戦争」を行い、それに勝利することで共産中国をも倒す計画だったから、北支に続いて、上海に精鋭部隊をあつめ、数の少ない日本を一気に追い落とす作戦に出た。もしこれに成功したら、ちょうど、日本がロシアをやっつけたように、中国人は国民政府を圧倒的に支持するはずだった。

上海事変、それに続く南京事変はこうして起こった。結果は、日本軍はきわめて強かったので、上海でも南京でも勝利を収め、国民政府は奥地に逃れ、イギリス、アメリカ、フランスなどは日本に中国の主導権を奪われて、さらに恨みを持った。

中国が南京虐殺などのような歴史的に起こっていないことを宣伝するのは、上海事変が中国側からの仕掛けであることを表面化しないためであり、それに反日日本人が応じたものである。

日本はどうするべきだったか?

もし日本政府と日本人が、歴史を良く知り、ジックリ考えて冷静に議論することができたなら、上海で中国軍を破った時点で、平和交渉を行い、北支と上海付近から撤退して、日本の領土を確定しておくべきだっただろう。当時からそのことが良くわかっていたのは石橋湛山や石原完爾らごく少数で、多くは感情や経緯にとらわれていた議論に終始した。

特に、満州国建設以後、「戦争賛美」で国民を煽り、販売部数を増やした朝日新聞、読売新聞に大きな責任があり、冷静な議論を展開した毎日新聞が没落した。新聞の誤報、煽りは国民に責任があった。

軍部の暴走とか、日本軍の乱暴な行為というのは、口を閉ざして任務を遂行していた日本軍に、口だけ達者な文化人や新聞社がねつ造した幻だった。その点で日本軍の名誉はいつかは回復しなければならない。

これは現代日本でもほぼ同じである。

その点で、日本は慎み深く、誠実で、努力家であると共に、論理的、科学的思考や我慢強さで劣り、個別のことで勝っても総合で負けるという段階をまだ超える事ができない。

現在、地球が温暖化するとか資源が枯渇するなどということを言っているのは世界で日本だけで、そのウソが現実のものとして政策にも取り入れられているが、当時の日本もまたまったく同じだったのである。

政府が原発を強制し、それを忠実に進めている電力会社に非難が集中するのと同じで、論理の整合性を取るのがとても難しい社会のように感じられる。

(平成25828日)