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満州国の建国から、上海事変、南京事変、そして日中戦争になるところが、近代日本の歴史や中国との関係で一番、難しい。そこでまずは「本質だけを書き、できるだけ詳細に入らない」ことを心がけたい。言えば「木を見て森を見ない」ということにならないようにする。

その理由は、日露戦争までは侵略戦争かどうかはほとんど問題は無いし(日本が独立しただけ)、第一次世界大戦は日本が参戦したと言っても主戦場はヨーロッパで日本はついでに参戦したにすぎないからだ.

つまり、
1) 日清戦争     明治中期で単なる戦争
2) 日露戦争     防衛戦争で日本の生死がかかっていた
3) 第一次世界大戦  ついでの戦争
       (日本が完全に独立して一等国入り)
だったが、その後の戦争、
4) 満州国建国、
5) 上海・南京事変から日中戦争
6) 大東亜戦争
は少なくとも見かけは日本が戦争をしかけたように見えるので、「歴史認識」に大きな違いが出てくるからだ. つまり、日露戦争、第一次世界大戦は日本にとって「受け身の戦争」だったが、満州国建国からは日本の「積極的戦争」のように見える。

だから、この時期の本質を見極めることがとても大切になる.ゆっくり整理しながら進みたい.

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「満州」というのは中国の万里の長城の北、朝鮮の北にある。万里の長城の北ということは「中国ではない」ということを示している。これがまた日本の近代史にも大きな影響を与えた。

もし、日本と中国の関係が難しくなったときに中国を支配していたのは「外国の人=満州民族」だった。清(その当時は「後金」といったが)が中国を侵略したのは、ちょうど徳川幕府ができた頃で、それまで中国の王朝だった明(みん)を追い出して外国人の政権を作った。

つまり、日本では「清」という国は中国の国とされているが、清は満州の国で中国は占領されていた状態だった。でも、200年以上、首都を北京に移していたのでもともとの国の満州はすっかり寂れていたい。

そしてロシアが満州に進出すると「祖国を明け渡す」という形で満州はロシアが支配するようになった。

一方、そのころの日本は日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、第一次世界大戦でドイツを東アジアと太平洋から追い出し、ヨーロッパ国家と同じく「世界の一等国」になった。

そのころの世界の一等国は、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアというところだったので、日本もイギリスやドイツをまねて行動をするようになったし、日本人も「せっかく一等国になったのだから、一等国のように振る舞うこと」を求めた。

当時の世界の一等国の標準的な振る舞いは、
1)海外に植民地を持つこと、
2)軍備を整えて常に他国との優位性を保つ、
3)自国に有利であれば他国を占領し、植民地か属国にする、
ということだった。

すでに植民地を多く持つイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガル、アメリカ、フランスはどちらかというと「植民地の死守」をして、ドイツ、日本のような「遅れてきた国家」はなんとかして他の国と同じように支配権を広げようとした。

そんなとき、つまり日本が一等国になり、台湾、朝鮮、千島列島、南洋諸島を占領して「頑張っていた頃」、「願ってもない話」が飛び込んでくる。

それが「滅びつつある清の皇帝が、中国から引き揚げて満州帝国を作り、その皇帝になりたいと言っている」ということだった。すでに清は滅び、次の皇帝になるはずだった溥儀は、中華民国の蒋介石の軍隊が歴代の清の皇帝・・・それはまさに自分の父祖であったのだが・・・の墓が爆破され、その骨が飛び散るのにショックを受けて父祖の地の満州に新しい国を建国したいと願った。

一等国になり、イギリスやアメリカと同じように振る舞おうとしていた日本は、満州国を建国し、溥儀氏を皇帝に治め、日本の影響を満州にも及ぼしたいと考えた。この考えは後にアーリア人や反日日本人に否定されるが、私は普通の考えのように思う。

ここまでの日本の歴史の整理では、満州国の建国に日本が力を出したのは、ヨーロッパ、アメリカの当時の政治から言えば、むしろ控えめのように見える。この問題はもう一度、検討する予定。

また、満州帝国建国の歴史の話になると、張作霖の爆死など「事件の発端」について年号や経緯を覚えさせられるが、むしろ私たち歴史家ではない人にとって大切なのは個々の事件ではなく、満州帝国ができ、日本が実質的に運営したという事実を理解することだと思う。

(平成25820日)