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ある事件をキッカケに社会が憤激し、特殊な例を一罰百戒的にバッシングして気を晴らすことがときどき、行われる。このような場合の仕掛け人の多くは、メディアと専門家であり、それを熱狂する民衆が支える。

しかし、人間社会も徐々に進歩していく必要がある。ある事件が起きても、その内容を冷静に分析し、それを社会の一つの現象として参考にし、最終的には社会の発展と多くの人の幸福になるようにしなければならない。

桜宮高校の暴行事件と生徒の死亡は何を私たちに警告したのだろうか?私の見解は次のようなものである。

1) 人格形成やスポーツそのものの楽しみではなく、有名になる、お金が儲かるなどが動機となったスポーツの存在。それは「オリンピックを招致すると何100億円の経済効果がある」というのと同じ。

2) 高等学校や大学のスポーツ部、あるいは全日本クラスまで選手を子ども扱いにして体罰を主体とした訓練が行われていたという野蛮な行為。

3) そのような体罰の多くがコーチや監督側の「虐めたい」、「いばりたい」という心理の奥底からでていること。

4) このような特殊な犯罪的行為が「体罰はすべて悪。教育に体罰は不要」という議論を呼び、それで空気ができるとNHKなどは二言目に「体罰は許されない」とくり返す。

5) 教育現場は「教室でマージャンする生徒を止められない」というような現実的問題があり、さらにケンカをしている2人の生徒を口では止められず、そのうち一人が怪我をするという矛盾した状態が発生する。

6) 部外者がきれい事を言うのは危険で、教育は発達段階にそって「適正な体罰」が存在することを認め、関係者が充分に研究することが必要。

7) このような質的なものを文科省が「通達」で指導(文科省の課長などが指導できる力は無いが)するという日本の悪しき風習が日本の教育を劣化させている。

というように考えている。今回もまさしく何の意味も無く事件だけが騒がれ、文科省が通達を出し、また一つ教育が破壊され、しばらくすると破壊した本人(社会)が日本の教育が間違っていたという。

私はこのように思うけれど、私のブログは暴力を肯定したように見えたらしい。社会が一方向に進んでいるときに中立的発言は難しい。

(平成25617日)