女性は男性とは全く関係なく人生を送るのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。特に夫婦の関係はうまくいけば一生、ほぼ一緒にいるのですから、もっとも人間関係が深い間柄と言えるでしょう。
だから女性の一生は男性の一生と深く関係しています。でも、多くの女性論では「男性の環境の変化」には無頓着で、「男性はいつまでも昔のまま」と錯覚していることが多いようです。
前回に書いたように、かつて国民は25才までに女性は子ども2人を、男性は兵役を済ませて国家に対する任務を果たし、25才から50才までの人生では女性は子どもと家庭、男性は戦争で死ぬことと勤労を担当してきました。50才以上の意味は戦前まではわかりませんでした。(戦前の平均寿命は50才ぐらい)
戦後、男性の方は「兵役、戦争」が無くなり大きく様変わりしました。それに伴って男性は方向性を失っています。男性の新しい方向性を女性論で語られる事も少なく、時に「暇だから育児を手伝え」という類いの「行き当たりばったりの論」が見られるだけです。
戦争が無くなり、力仕事が無くなった現在、女性は真剣に「男性の将来、生きがい、社会での役目」について考え、より積極的な提案が必要です。
大きな方向性として2つあります。一つは従来通り、男性は国家を守ったり、機関車(新しい移動手段など)を作ったり、計算機やスマホ、監視カメラ、交通事故のない自動運転の自動車を研究したりするという方向、もう一つは女性と一緒に仕事もし、育児や台所をやるという方式、です。
これまでの女性は「男性より下位」という位置づけでしたから、「男性のことはすべて知っていなくても良い。これをやって欲しいと言えば良い」というスタンスでしたが、男女が同じく社会を築くためには女性が単に男性に「これして」と言うのでは無く、男性の全体像についての見識を持たなければなりません。
母親が子どもを教育しているのを見ると、明らかに子どもの一部ではなく、全体の時間を観て配分しています。子どもに勉強させようとしている母親は勉強以外のムダ(遊びなどだからムダではありませんが、母親から見て)な時間を極力減らそうとしています。
それに対して、夫には「あれして、これして」と言っています。子どもと夫に対してこれほど大きく違うのは、妻が夫に「何をしてもらいたいか」がハッキリわからず、「頼む」ということだけを考えているからと思います。
男女の役割を決めるというように硬直的に考えないこと、時代と女性の立場の変換も考えて犠牲者がでないようにするのも大切です。その意味では、1)当面と将来、2)高い能力のある女性と普通の女性、の二つを一緒くたにすると犠牲者がでるでしょう。
戦後の男女の関係で「本来(将来)、男女はこうあるべきだ。すべての女性は男性並みの能力がある」として失敗しました。女性の犠牲者を多く知っていますが、本当に可哀想だと思います。
そこでまずは現実主義「将来はともかく、現在はまだ女性として遠慮がちな人が多い」ことと「学歴、体力、気力などの点で出産というハンディを乗り越えて男性より優れた業績を残すには少し無理がある女性が多い」という2つを前提に考えてみたいと思います。
それは男性も同じで「将来はともかく、現在はまだ男性として頑張らなければならないと思っている男性が多い」ことと「学歴、体力などに男性間で差が大きい」ということも考慮する必要があります。
その中で、最終的には男女が「戦争と肉体労働がほぼ無くなった今、幸福で充実した人生」を送るために、なにが最善かを考えることになります。
(平成25年3月10日)