「genpatsuyomiuritdyno.83-(12:26).mp3」をダウンロード

長く尊敬されていた新聞の社説のレベルが落ちたことはよく言われることだが、ここは新聞の論説委員などの奮闘に期待したい。

ところで、2013225日の読売新聞の社説は多くの人に強い疑問を抱かせた。読売新聞が「被曝は大したことはない。原発は再開すべきだ」と考えて紙面を作っていることは良くわかっている。

でも、情報に関する社会的公器であり、数々の優遇措置を得ている大新聞にはそれなりの社会的倫理が求められる。それは「意見は自由だが、事実には忠実」ということだ。特に日本の新聞は「事実」を国民に知らせる役割が強く、それだけに、読売、朝日、毎日などの大新聞は事実を伝えるという点でプライドを持ってもらいたい。

今回の社説での問題点は、「被曝の限度を上げるべきだ」という「考え方」そのものではなく、「その根拠とされている事実の整理と認識」にある。新聞は必ずしも中立でなくても良いので、読売新聞が「被曝はたいしたことはない。食品の安全は100分の1則でなくても良い。原発は再開すべきだ」という立場を取るのは問題がない。

ただ、取材体制、記者クラブの特権、大規模印刷設備などを有する情報企業としての「最低の倫理」があり、それは「意見は自由だが、事実から離れない」ということだ。それが「普通の国民や企業」とは違う「大新聞の倫理」である。

その見地から社説を見ると次の点が指定される。

まず第一に「食品基準が厳しすぎる」という記述だ。その理由として「ICRPの11ミリは「超えても直ちに危険としていない」ものである」という論述だ。これには2つの間違いがある。

(1) 日本は法治国家であり、日本の法律で11ミリが定められているのであり、ICRPで決まっているものではない。読売新聞が「日本には国民を被曝から守る法律がない」という見解ならそれを述べ、もし「法律がある」ならなぜICRPを持ち出すのかについて見解が必要である。

(2) 日本の基準、11ミリは「直ちに危険がある」ことをもって基準値を決めているのでは無く、少なくとも5年程度の被曝で、長期間にわたり障害がでないことを基準としている。だから「1年1ミリが、直ちに危険ではない」というのは日本の法令には何も関係の無い論理である。このような低レベルの論理を大新聞が使ってはいけない。

(3) 日本の食品安全はかなり前から「100分の1則」(危険と思われる値の100分の1を基準とする)が適応されていて、私の記憶では読売新聞もこの基準を支持していた。従って、被曝だけにこの原則を適応しないなら、その事を明示しなければならない。

(4) 日本の法令の基準は「外部内部合計して11ミリ」であり、現在の食品の被曝の暫定基準値は内部だけで11ミリであり、法令は守られていない。「多くの食品が出荷できなかった」とか「国際的に厳しい基準」というのと、「日本の法令を守れ」というのは違う。

また第二の問題点は、自然放射線、医療放射線と比較していることだ。これにも数々の事実誤認と論理矛盾がある

まず世界で110ミリシーベルト以上の自然放射線の場所があるというのは事実だが、そこに住む人が「日本人並みの健康を保つことができるか?」が問題である。

私の調査によれば、中国、インド、ブラジルのいずれもが平均寿命が低く、日本の昔のように「ガン」という病気すら知られていない場所であり、インドでは海上生活と陸上生活の区別がなく、ブラジルでは道路をコンクリートで覆って線量率が低くなっているが統計は混合しているなどの問題があり、「世界の高線量地帯が日本の生活のクオリティーを持っているか」の評価はない。

次に医療被曝は「足が腐ったから切断する」という場合も医師が傷害罪に問われないという理由と同じで、「被曝しても良い」ということではなく「病気を防ぐことと比較して被害が少ない」という判断を医師がした場合に限定される。

・・・・・・・・・

読売新聞が本当に被曝限度を上げても良いと考えているなら、まずは「なぜ、これまで11ミリだったのか?」、「世界は統一して11ミリだが、それを上げても貿易などに支障は無いか?」などより根本的なことを事実に基づいてしっかり議論しないと、反論する方もあまりに幼稚で反論が前進的結論にならない。

「結論ありき」で事実を歪め、論理が破綻しているのはまずい。読売新聞はその歴史と伝統を重んじ、日本をリードする新聞としてもう少しシッカリした論説をすることを期待する。これでは世間一般の議論以下であり、「・・・すべきである」などと大新聞が言うには品位を欠く。

(平成2531日)