高校のスポーツクラブの体罰による自殺や、事もあろうに全日本女子柔道の提訴事件を受けて文科省大臣がコメントをしていたが、適切な内容だった。その内容は、
1) スポーツ指導と一般教育を分離した、
2) スポーツ指導において体罰が使われていたことを認めた、
その上で、
3) 日本のスポーツ指導も体罰方式から脱する時期が来たようだ、
としたことだ。
どんなに難解なことも、まず事実を認めること、第二に概念の違うものを区別することが大切だからである。
こんなに簡単なことがテレビなどのコメントではなかなか整理されないのにもどかしさを感じていたので、スッキリした。「もともと体罰は学校教育法で禁止されている」とか「体罰などまったく許すことはできない」という類いの論議はこの際、一掃してより論理的で現実的な議論に戻すチャンスである。
つまり、大阪の自殺事件、愛知の駅伝の高校の事件、そして全日本女子柔道の提訴などは、いずれも「スポーツ指導」の問題であり、一般教育とはかなり距離がある。
次に「専門的スポーツ教育においては体罰があるのが普通だった」という厳然たる事実を認めたことだ。私はすべてにおいて「ジャジャ漏れ」によって社会は明るく誠実になると考えている。事実をそのまま示すことがもっとも大切なことだと思う。
その点で「日本のスポーツもそろそろ指導方法を変える時期」というのは良い。現在、専門的スポーツで得にバレーやバスケットのようにチームワークを必要とする指導では8割ぐらいがなんらかの体罰を伴っていると考えられる。その状態がありながら、「体罰などケシカラン」と言っても始まらないのだ。
この際、体罰の問題を4つに分けて整理をして行くのが良いだろう。
1) 家庭や日常生活における体罰、
2) 学校教育の内、正規の授業などにおける体罰、
3) 学校教育の内、クラブ活動などにおける体罰、
4) 全日本など大人で専門的な指導での体罰。
お母さんがイタズラが続く子どもの手を「ピシッ」と叩いてイタズラを止めさせる行為、父親が悪さが続く子どもを抱えて尻を叩く行為、座禅で肩を打つ行為、元プロレス選手が「気合い」と言って他人の頬を叩く行為。
遅刻ばかりする子どもを教室の後ろに立たせておく行為、授業中うるさいので授業ができない子ども(複数)を廊下に出す行為、弱い子を暴力でいじめているガキ大将を力づくで静かにさせる行為、授業中眠っている生徒を揺すっておこす行為。
「体罰はぜったいに許されない」と言っている人は「どの場面」の「どのような行為」を体罰と言っているのだろう。テレビのコメンテーターのほとんどがそのことをハッキリせずに先生を罵倒し、事態を前進させるどころか、混乱させている。
私は「大臣が言った」ということをあまり重視しない方だが、それでも適切な発言は適切として整理を進めていくのが良いと思う。
(平成25年1月31日)