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教育の話をするときには、「人格」というものがなにかを避けることはできません。

教育基本法第一条 [教育の目的]

「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

「人格の完成」=「真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた」とダブって書かれていると解釈できます。

また、人格の基本的な条件として、次のことが上げられる場合もあります。
1)自分と他人の関係が良くわかっていること、
2)暖かい人間関係を持てること、
3)厳しく不運な状況になっても心の平静を失わないこと、
4)真理を理解できる理解力のあること、
5)人生に対する深い洞察力

ところが、人格とか自我というような言葉は、もともとヨーロッパから明治の初めにもたらされたもので、キリスト教の神と密接な関係にあります。だから、日本人にとっては「人格」といってもなにかピンと来ません。

むしろ「自我」があるのでは無く「無我」の方がなじみ深いことや、「人格」というと「動物格はあるの?」と聞きたくなります。日本は東洋文化圏にあり、キリスト教より仏教の影響が強いので、キリスト教社会の自我、愛、正義の代わりに、無我、慈悲、誠・恩という考え方が中心です。

そこで、ヨーロッパの思想をもとにして作られている教育の目的を日本的に書くと次のようになるでしょう。

「教育は,立派な人物になることをめざし,平和な国家とその社会の一員として,真理と礼節や恩を大切にし,他の人と調和し,自ら働き、誠実で,付和雷同しない強い心をもった心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

となるでしょう。

ここで「立派な人物」=「真理と礼節や恩を大切にし,他の人と調和し,自ら働き、誠実で,付和雷同しない強い心をもった人」ということになって、かなりわかりやすくなったと思います。

おおよその問題は把握できたような気がします。現在の教育の混乱の一つに、教育基本法で定められた教育の目的が考えられていないこと、それに加えて教育の目的自体がヨーロッパ流になっていて、日本人がわかりにくいということもあります。

簡単に言えば先生も国民も、もちろん教育委員会や文科省も真剣に教育の目的を考え、それを合意する手続きをしていない、だから人格とは何なのか、正義とは何かがわからずに進んでいる、それで体罰とか教育の仕方を議論しても、なかなか改善されないことがわかりました。

(平成25117日)