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「体罰をどうするか?」ということと「死刑を廃止すべきか?」という議論は実に似ています。つまり、過去=体罰事件や殺人事件の後始末、と 未来=教育をよくしたり安全な社会を作る、という二つのことが混合して議論されるからです。

殺人事件
1)殺した人がそのままでは殺された人が浮かばれない(その通りで過去の始末)、
2)殺人犯を死刑にしても殺人は減らない(その通りで未来のこと)

両方とも誠にその通りで、反論は余りありません。問題はこの2つが混乱することです。死刑廃止論の人は2)だけを強調します。「死刑をしても殺人事件は減らない」・・・それはそうなのです。このブログに書いたように、人間の行動の分布は決まっていますので、死刑をしても殺人は減らないのです。

でも、それでは世の中の人の感情が許しません。殺された人はこの世にいないのに、「悪いことをしても、その人を罰しても世の中が良くならないから罰しない」というのでは「罰することは未来のため」という事になるからです。

たとえば、教室で悪さをした子どもを「罰する」というのは、必ずしも教室を良くしようというのでは無く、「行為自体が罰に値する」ということなのです。罰することが教室を良くしようが変わらないとしても、それによって、「悪いこと」が良くなるわけではありません。

なにが悪いのかをハッキリさせるためには、「悪は罰する」という事も必要でしょう。そして悪の程度に応じて罰も強くなるとすると、殺人は死刑でなにも矛盾はありません。

今度の体罰から自殺になった事件で、私が「この事件を参考にして教育をよくするには」という議論をしますと、「教師のやったことはわるいことなのだ」という反論を頂きます。まったく同感です。

もし体罰が行きすぎであると言うことになったら、教師が罰せられるのは当然です。でも教師を罰したから教育が良くなるということではありません。過去の精算と未来の改善は質が違うからです。

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このような混乱のもっと酷いのが水俣病でした。だから水俣病がなんの参考にもならずに、その後の公害事件となり、多くの人が犠牲になりました。

1)過去の清算・・・国が過失があり間違ったのに、裁判官が国は身内なので、民間会社をかわりに「無過失責任」と称して罰した、
2)未来の改善・・・未知のことや量が大幅に変わったときには気をつけるということをまったくやらなかった(真なる原因を追及しなかった)。

(平成25117日)