女性は子どもを産むことができ、男性は突撃することができる。それ以外にはあまり差は無いが、この特徴に付随して関連することには違いが見られるようだ。男性は突撃して死んでしまえば終わりだから、やや慎重さに欠けるが、女性は自分が死んだら子どもが危ういから慎重だ。
両親が揃っていると子どもの生育に良いと言われるが、その一つに心配性の母親と、少し危険なことをやらせる父親の存在もあげられる。また、欠点が目につく母親と、長所を伸ばそうとする父親という傾向もある。
2011年の原発事故でも、この傾向はハッキリ出た。母親は何とかして自分の子どもを守ろうと必死になり、男は「日本のために少しの犠牲がでても仕方が無い。それが我が子になることもある」という言動をとった。私は母親の態度が正しいと考えたが、考え方が二つあることは認めなければならない。
ところで、家庭と社会では違う事もある。その一つに「数人か1億人か」ということだ。統計力学で学んだことだが、数が少ないといろいろな事が起こるので、個別に対応しなければならないけれど、数が多くなると論理的に決まってくる。だから、女性はやや個別に記憶し、男性が論理で理解しようとするという心理学者の言うこともわかる。
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膨大な数の人間が存在する社会は、論理的に構成される。たとえば、優れた人が何パーセント、平均的な人、そして劣る人が何パーセントなどという「能力分布」もまた人間の性質によって一義的(紛れが無く、一つだけに)決まってしまう。
たとえば「殺人事件を無くす」ために、「殺人事件を起こしそうな人」をすべて逮捕しても、同じ数だけの「殺人事件を起こす人」が「普通の人」から出現する。これは、「一人一人の心の中にある「人を殺したい」と思う比率」が決まっているからだ。
だから、殺人事件を減らそうと思ったら、殺人犯になりそうな人を逮捕するのでは無く、自分の心の中で「人を殺したい」と思う気持ちを減らすしか無い。
学校の体罰で可哀想なことが起こっても、それをおこした人を罰しても不祥事はあまり減らない。隠れるだけだ。もちろん、事件を起こした人は罰せなければならないが、それが社会をよくすることは無い。それは社会が集団だからだ。
そこで、私たちの心の中にあるもの、「どうしても言うことを聞かない子どもに手を上げない」とか「どうしても言うことを聞かない子どもの心を素直にする」などの、一人一人の心の中の変化が期待される。
しかし、成長期の子どもの心は矛盾している方がよいこともある。だから、成長期の子どもの教育というのはとても難しい。ただ、教育界は改善できるので、「家庭、学校、社会」が一体となって、一人一人の心の中を綺麗にするしか本当の解決法は無い。
これがバッシングしても、バッシングしても社会は良くならない物理的理由である。
(平成25年1月14日)