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体罰やイジメで自殺したり、引きこもりになったりする生徒や学生がでるたびに、「学校は何をやっているのだ!」というバッシングが始まり、教育委員会が頭を下げるという光景が続いている.

一方、学校現場では、教室で生徒や学生に接しているだけだから、友達関係などには十分に気をつけられないという先生も多く、また最近では「個人情報保護」という観点から、生徒や学生の家庭や個人的なことを聞くこともできない。

もともと、児童生徒、学生を全人格的に指導するということになると、家庭環境、友達関係、趣味など広範囲に知る必要があるが、今では「親の職業」はもとより「兄弟がいるか」も聞くことができない。そうなると「何か悩んでいる様子はあるけれど、相談する人がいるのかな」と思ってもそれを知ることすらできない。

ここで私は「学校を防御する」という意図はもっていない。「悲惨な子どもが二度と再びでないように」ということを考えると、「事実を良く知る」ことが大切であり、「異論を認めて考える」ことも必要と思っているからだ. 今の報道や有識者のコメントは方向が違うように感じられる.

まず、学校とは何をするところか? 教育基本法では「社会人として人格高潔な人を育てる」となっているが、社会は学校に「勉強やスポーツができるようにして欲しい」と期待している.もともと何を目的にして教育しているのかがハッキリしない。

ゆとりの教育が批判されたのだから、今の日本社会は「学校で勉強させてください」ということだ。それなら、授業中に私語をしていて講義を聴かない生徒は保護者に手紙をつけて返すことになる。「あなたのお子さんは、勉強する気が無いようなので、勉強する気にさせてから学校に出してください」という手紙だ.

日本の法律によると、児童生徒は「保護者」がいて、保護者がその子どもに気を配ることになっている。40人学級でも先生一人に子ども40人、それに中学校からは学科単位で先生が替わる。

これに対して親はせいぜい2人か3人で、毎日、子どもの様子を見ることができる。だから、当たり前のことだけれど、親も「子どもの成長や幸福」に強い関心を持ち、もしそれが脅かされるようなことがあれば身を挺して子どもを守り、もし子どもがやるべき事をやらなければ、叱ってでもさせなければならない。

社会もそうだ。かつてよく言われたが、日本の電車の中で子どもが大騒ぎしていても他人は知らない顔をしているが、先進国では公衆道徳を守らない子どもに対して、他人でも厳しく叱る。社会が共通して教育をしなければならないという意識がある。

「社会が子どもを育てる」と言って民主党は「子育て資金」(ウソだった)を提案したが、お金の前に、まずは精神的なこと、教育的なことに関する社会的合意が必要なことは言うまでも無い.

やはり子どもの教育は、第一に家庭、第二に学校、そして第三に社会で、すべての大人が「未来の日本のために」と考えて、バッシングを止めることだろう. 子どもはまだ成長途中だから、その教育はとても難しい. その困難を学校だけに任せても成功はしないだろう.

先回「フランス流」を説明したけれど、文科省の指導や、教育委員会、ましてや自治体の関与をさて、先生の待遇を上げて先生自体によく考えてもらうことが大切だ.日本の小学校から高等学校までの先生は、その学問的力、人格、思考力からいって社会より高いと私は思う.その人に子どもの教育を考えていただいた方が子どものためになると私は思う.

このシリーズで、学校教育法第11条の体罰規定と文科省の役人の指導について言及しないのは、私が考える教育と違うからである。

そのためには一にも二にも、先生の待遇を高め、子どもに先生を尊敬させ、具体的な教育方法(体罰の無い教育はあるのかなど)について、十分な検討をする時間を先生がとれるようにしなければならない。結局、私たちの希望は子どもの成長だから.

日本人は子どもの幸福を考えているのだろうか? と良く思うことがある。福島では大人は12ミリ、子どもは120ミリ. 原発廃棄物は大人が処理せず、子どもの時代にパンクする. エコポイントを欲しがり会社がダメになる。赤字を出して税金をもらいツケを子どもにつける. 外国に工場を作り日本の子どもの就職先がない・・・・そして教育も同じように私には見える.

(平成25112日)