人間を教育するというのは、なんでも「不完全な人を、やや完全な方向に進ませる」ということですから、なかなか難しいものです。私も20年の教師生活を経て、その難しさを身にしみて感じています.
あるとき、私は指導に悩み、毎週、教会に通って牧師様のお話をお聞きし、時には聖書の勉強会に出ました。それは「自分の前を通りすぎる悩む学生」を助けることができないのです。その学生は私から見ると、ある考えにとらわれ、錯覚し、悩み、ズルズルと悪い方向に進んでいるのですが、それを直すことができないのです.
イエス・キリストが道ばたで会った悩む人を一言で解決してあげていたのを読み、どうしたらあのようになれるのか、万分の一でも勉強したいと思ったのです.
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教育方法の分類はいろいろありますが、一つに「心のほうから教育する」というのと「頭のほうから教育する」というのがあります。人間は複雑な生物で、頭が良いのですが、それでいて頭で理解する事が難しい生物でもあります.
そこで、教育をするに際して、「心からする」という方法があります。これは良く「門を叩く」という方法で、ある先生の門を叩いて入門させてもらっても、肝心なことはさっぱり教えてくれず、毎日、掃き掃除、拭き掃除、風呂の準備をさせられて1年・・・という事になります。
この教育方法は「これから学ぶことを頭で理解するための心の準備」でもあります。そして教育が始まっても「座禅、水垢離、荒修行」などによってさらに「体と心を鍛える」ことまでします。
このような教育方法は、あまり深く考えない場合は、教育をする方(先生)のワガママだと言われることもあり、また、日本でも知識人などが特にそのように考える傾向があります。
大学で研究をさせるときに、掃除や後片付けをしないとその場で、研究を止めさせていたことがあり、それについてある大学の顧問弁護士から「大学と学生の間の契約内容に反する」と注意されたことがあります。
弁護士の言うのは「学生は「勉強」するために授業料を納めているのであって、学生が散らかした実験器具を整備するのは大学の役目であり、それは人を雇って掃除させるべきだ」という趣旨でした。(学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていない。文科省の指導があるが、一方的なものなので、このシリーズでは取り上げない。)
私の研究経験では、自分が使う実験器具や材料などは自分の魂としてそろえないと実験自体がうまくいかないのです.ちょうど、お寿司屋さんが包丁とサカナを大切にするようなものですが、それは現代契約論では含まれていないのです。
研究というのは未知のことに挑戦するので、とても心が乱れるので、それを克服するための訓練が必要です。それはあるいは水垢離であり、荒修行であり、さらに日頃の身の回りの物に対する愛着でもあります.それらが最後の苦しい場面で研究を支えます.その第一歩が「片付け」なのですが、それはまだ教育方法として定型化されていないので、弁護士には理解できなかったと言うことです。
このブログにも何回か書いたように、元々教育の目的というのは学力とかスポーツの能力を高めることでは無く、その人間の人としての力を上げるものですから、その手段として授業を受けさせたり、実験したり、あるいはバスケットボールを教えているに過ぎないのです.
私たちは「心の教育」が目的で、そのために「頭の教育や体の教育」をしているということをもう一度、教育基本法(旧条文)を示して、今回の体罰問題を考えてみたいと思います.
「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」
2013年正月に起こった高校の体罰と自殺の問題は、この条文と比較してどこに問題点があるのでしょうか?
(平成25年1月11日)