「豊かな生活」というのは、ゆったりした家、快適な空間、美味しいご飯、笑いの絶えない家族、信頼できる友人・・・などを言うのでしょう。そしてその中に、「ゆったりした時間」を持つための小道具も必要です。
ほどほどのお酒、香り豊かなコーヒー、紫煙の中の瞑想、湯煙に沈む温泉、そして数人の女性ならケーキと紅茶も小道具かも知れません。
戦後復興、高度成長を経て、私たちが目指したものは、長寿や健康でもありましたし、毎日の生活の豊かさ、潤いでもあったと思います。でも、それは実現しているでしょうか?
まず、第一に「先立つもの」が減ってきました。日本人の平均年間所得はこの15年で460万円から400万円へと大きく減り、さらに年俸10億円を超える経営者も多数出現して、かつてのように「みんな日本人、みんな同じ」ということからギスギスした毎日に変わりつつあります。
節約が必要かなどといっても、節約自身をすることもできない人が多いように感じられますし、まして「家族で旅行」などは遠のいていくばかりです。私たちはなにを夢見て必死にやってきたのでしょうか?
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その中で、欲求不満がそのはけ口を目指すように、「目を三角にして、他人を非難する」という方向に走っていますが、あまり感心したことではありません。世の中が成熟するとともに、私たちは常に穏やかに、ユーモアをもって他人と接することも必要でしょう。
このような小道具の中に、「タバコ」や「ケーキ」、時には「塩辛い干し魚」はあってはいけないのか?私の疑問はそこにあります。もちろん、マナーというのはいつでも大切で、お酒を飲んで暴れたり、人に暴言を吐いたり、女性をからかったり、はては酔っ払い運転をすることは社会的にも禁じられ、人間としても感心しません。
でも、だから「お酒を飲む人にたいして目を三角にして追放する」というのはどうでしょうか? やはり成熟している社会こそ、お互いの自由を認め、他人を尊重し、公衆道徳を守るものではないかと思うからです。
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「クールビズ」というのが世に出てきてからというもの、暑がりの私はネクタイを締め背広を着て、汗だくで町を歩いています。私から見ると「クールビズ」というのは実に野蛮な風習だと思うからです。
第一に服装という個人の問題に政府が口を出すこと、第二に「政府に言ったもらったからネクタイがとれて良かった」などと言う人がいること、第三に「クールビズ」という新しい単語を考案し、流通させるのに政府が60億円以上の税金を払った、ということがとてもイヤなのです。
これこそ「野蛮」を絵に描いたように思います。ときどき、北朝鮮の人が同じような服装をしているのをみて、「ああ、まだ自由がないのだな」と思う日本人が多いのですが、ネクタイ一つ、自分の意思で決められない社会は日本の方なのです。
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タバコを追放しようとしている人は何が目的なのでしょうか? まさか、他人の健康を気遣ってということは無いと思います。医師なら具体的な患者さんを目の前にしていますから、「タバコを止めた方が」と思うのも理解できますが、患者さんを持たない一般の人がなぜタバコを追放しようとしているのか、他人の健康がそれほどきになるのか、その理由は何なのでしょうか?
この問いを何度も考えていると、どうも自分のストレスを「タバコ追放」という形で解消しようとしているように見えます。たとえば私は自分でやりたいことがあり、他人は他人でご判断されていると思っているので、他人がタバコを吸っていても気になりません。たまに「煙たい」時にはやや気になりますからそっと座を外すということはあっても、その人が一人、静かにタバコを吸うのに文句を言うような気分にはなりません。
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健康問題も同じです。雇用関係が不安定で60才をすぎて自分の満足する仕事をしている人はそれほど多くはありません。確かに長寿であることは大切ですが、定年後、何もせず、塩気の少ない食事を強制され、血圧降下剤を飲み、コレステロールを減らして気分が落ち込む生活を続けるのが「人生のクオリティー」でもないと思います。
引退して5年というなら、悠々自適な生活もまたおつなものですが、それが20年になると、社会の歪みでもあります。仕事がなく20年を過ごすのは残酷な事とも言えるからです。
生活、嗜好品、タバコ、健康について私たちは根本的な問いを発したことはあるでしょうか? 文化人の一部は余裕のある生活の中であるいは議論があったでしょう。でも、日本人全体に及ぶような形で、この難しい問題が正面から問われたことはないと私は思うのです。
このブログは、精神的な悩みを抱えた若い人を含めて、私たちはどのような人生を送るのか、それにはタバコや健康という問題をどのように考えれば良いのかについて整理を進めていきます。
(平成24年9月22日)