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この人生講座も最初は「お金」の話から入り、「健康」へと進みました。両方ともまだお話をすることはあるのですが、次に「心の問題」に入っていきたいと思います。

学生の頃、それは私も同じだったのですが、正義感にあふれ、「自分の考えが正しい」と思うものです。若いというのはそう言うことですから、それはそれで良いのですが、時に激高して、
「先生っ!なんで正しいことが通らないのですかっ!」
と迫ってくることがあります。

そんなとき、私は「そう、君が言うことが正しいの?」と聞きます。学生は勢いこんで「正しいですっ! 先生も分からないのですかっ!」とあくまでも激しい。そこで私は次のように言います。

私 「君が正しいのなら、君は3年で絞首刑になるだろうな」
学生「???」
私 「イエス・キリストがお話になったことは2000年も多くの人の心を打っている。だから私や君が言っていることより正しかったのだろうね。イエス・キリストは27才で話を始め、3年後に磔にあって命を落としている。」
学生「それがなにかボクと関係があるんでしか?」
私 「君の言っていることが正しければ、3年で死刑になるだろうね。社会というのは本当に正しいことは通らないのだよ。ややいい加減なことは受け入れられる。無事に一生を終えようと思ったら正しいことは危険なんだよ。」

このことがすぐ分かる学生と、時間がかかる人の違いはあるけれど、こんな事がきっかけとなって学生は成長していく。理想を捨ててはいけないが、その限界と社会を知らないと希望は達成されない。

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歴史的に見て、イエス・キリストを3年で磔にしたのは人類史上、最大の損失だっただろう。私には彼が神様か人間かは分からないが、この世に出現した人類の内で、1,2を争う人格者であり、最大の頭脳を持った人だったことは間違いない。

2000年も経ったいま、信者でもない私が聖書を読み、その素晴らしい洞察力、人格、行動力に唖然とするしかないのである。同じように深い感動を覚えるのは、わずかに伝え聞くお釈迦様の言動やソクラテス語録だが、お釈迦様の直伝が少ないこともあって、聖書はひときわ優れているように感じられる。

今から30年ほど前のことだったが、ある敬虔なキリスト教徒の方から芭蕉の句の入った挨拶状をいただいた。その句はとても深淵で素晴らしいものだったが、ある時にその人に会う機会に恵まれたので、私は、
「芭蕉の句は確かに素晴らしいと思いましたが、それなら聖書の一部の方がもっと素晴らしいのに、なんで芭蕉の句が必要なのですか?」
とお聞きした。若かったので礼儀を知らなかったからできた質問だろう。

私の質問をそばで聞いておられたその方の奥さんも敬虔なキリスト教徒だったらしく、私の質問にいたく感心されたと後でお聞きした。私には聖書以外の書物で聖書より感銘を与えてくれるものはない。

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私も時にバッシングされる。ゆえない非難、言ってもいないのにバッシング、子供の健康を心配して「セシウムで汚染されたものは子供に食べさせないでくれ」というと全国の新聞で「不見識」と書かれる。

凡人である私はそんなときにやや落ち込まないでもない。でもそんなとき、私はイエス・キリストを思い出す。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがあるのだが、それでも「あの偉い人でも3年で磔にあった。私が被害を受けてもそんなのは小さいことだ。私もまだたいした事はしていないのだな」と思うと、心の負担は無くなっていく。

イエス・キリストの人生を思えば、多くのことは楽になる。すべての人の罪を背負ったと多くの人が感謝している理由も分かる。

この世に辛い思いをしている人が多いだろう。ゆえなく他人から非難されたり、身に覚えのないことで悔しい思いをすることもあるだろう。でも、世の中というものは正しければ正しいほど罰せられる、人間という生物はなにか欠陥を持っていて、その歪みをある特定の人にかぶせるクセがあるように思う。

人間にとって正しい人生を送ると正々堂々として楽だ。悪いこと、他人をおとしめることをすると後ろめたい。でも、まだ人間の集団は一人が正々堂々と生きることを許さないのだろう。

私が話をした学生もやがて大人になり、正義を振りかざせば負担は大きいだろうが、それでもその人の正義を貫いてくれるように願う。それが本当に正義なら、イエス・キリストの受難と同じようになるのだが、それは人間にとって誇りになり、やがて人間の集団も正しいことを受け入れるようになるだろう。

(平成2499日)