おとぎ話というのは、子どもが読むものですが、同時に人生や文化に対して深い含蓄を持っているものです。日本で有名な「竹取物語」もその一つかも知れません。

物語は単純明快、夫婦が光る竹の中に玉のような赤ちゃんを発見、後にその女の子が月のお姫様であることがわかり、かぐや姫は最後に月に帰るという筋です.

あまりにかぐや姫が美しかったので、多くの若者が求婚し、その中の5人の王子らがかぐや姫が求めるものを持ってきたら結婚すると言うことになりましたが、それが「仏の御石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「火鼠の裘」、「龍の首の珠」、「燕の産んだ子安貝」とまるでこの世になさそうなものばかりというわけです。

ところがこの話のおもしろいのは、王子らがあまり真剣にかぐや姫が求めたものを探さないところです。仏の御石は山寺のタダの石を持ってきてばれ、蓬莱の玉の枝は職人に作らせたのに、その職人達に報酬を払わなかったので、それでばれるという有様です.

文学的にはさまざまな論評があって、それはここで紹介することはしませんが、この話は男と女、日本文化についてかなり深い意味を持っているように思います.

まず第一に5人の王子にしても、かぐや姫を愛した天皇陛下にしても「あまりに美しいから」という理由だけで、とうてい人と人の「人格的交流」があったようには見えません。中には屋敷に押しかけて塀をよじ登り一瞬見えた姫の姿に惚れているのですから、自分の頭の中で作り上げた幻想以外の何物でもありません。

そして第二に、かぐや姫に難題を出された王子達は「命をかけてまじめに探そう」という気はあまりなく、何とかずるく立ち回って偽物でごまかそうとしています.

この第二点目はかなり日本的で、類似のヨーロッパの話、「ドンキホーテ」、「ロミオとジュリエット」、そしてグリム童話の「あくまの三本の金のかみの毛」などと比較するとかなり違います(文学者は類似ではないと反論されるでしょうが、あまり真剣には考えないでください).

日本の男性はずる賢く、苦労せずに求めようとしますが、ヨーロッパの男性は「命をかけて女性の要求に応えるのが男子たるものの本懐だ」としています。ちょっと考えるとヨーロッパの男性の方がかっこいいし、誠実なような気がしますが、それは本当でしょうか?

日本人というのは俯瞰的に、抽象的に、概念的に物事の本質をとらえようとし、かつ捕らえています。それに対してヨーロッパは1596年にデカルトが誕生する前からどちらかというと還元主義で、物事を分解し、解析し、論理的に明らかにしようとする傾向があります。

「解析的、論理的」に考えると「女性に誠実」になるのですが、「俯瞰的、抽象的」では「物陰から一目見たら惚れるんだから、恋なんて幻想だ.そんなものに命をかけるなんてばからしい」と言うことになりますし、竹取物語の悲劇(最後に別れる)とロミオとジュリエットの悲劇(最後に二人とも死ぬ)の違いも人生や男女に対する洋の東西の違いとも思えます。

実は日本とヨーロッパの対比の中に、古来から数多くの文学に書かれ、人々を喜ばせたり苦しませたりする男女の関係、そして現代の夫婦の離婚問題に深く関係する、男女の愛と性の問題が潜んでいると私は思うのです.おいおい書いていきます.

(いらぬ話)私はプラスチックや繊維を「燃えなくする研究」を進め、数年前に「普通はボウボウ燃えるのに、全く燃えないもの」を発見しました。かぐや姫に「火鼠の裘」を持って行けたのに!!残念無念!!

 

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(平成24616日)