原発事故を境にして多くの日本人が「何かおかしい。このままでは日本はダメになってしまうのではないか?」と感じています。でも、1990年頃から日本の大人は少しおかしくなったのかも知れません。 「savetdyno.70-(5:41).mp3」をダウンロード
それまでのように単純な「右上がり社会」・・・つまり高度成長路線を走っていたときは何も考えなくても良かったのですが、バブルが崩壊して自分たちで方向を決めなければならなくなると、人生観、世界観が重要になり、方向性を失いました。
その結果、「もったいない」、「節約」、「自然との共生」など部分的な正義はあるものの、全体のつじつまがとれない言動にでました。その間に、年金騒動、赤字国債の大量発行、やっていないリサイクル、温暖化騒動と架空のなかで右往左往してきたようです。
資源の方面で次のような話があります。
「子供が20人いるとして、パンが100ヶあるときには子供にゆっくり食べさせて良いが、パンが10ヶになったら先に取らせろ」
これは「どんなにパンが少なくても、我が子を餓死させて、他人の子供を助けるのは健全な考えとはいえない」ということです。これはこの世の矛盾についての一つの指針です。本当はパンが十分あることが必要なのですが、もしもない時には、やはり我が子を救おうとするのは仕方がない。それが結局、集団の最も良い状態をもたらすということです。
これを「石油がなくなりそうだ」ということに当てはめると、「みんなで石油を節約しよう」と呼びかけるのは良いのですが、「石油が枯渇しそうな時には先に石油を取った方が勝ち」というのも同時に正しいのです。
それでは日本政府が「石油が枯渇しそうだから、節約しよう」と言うのは正しいのでしょうか? もちろん、私たちの日本にとっては間違っています。かつて中東から日本へタンカーで運ばれてきた石油は、日本に来るまでに東南アジアや中国に向かっているということだけなのです。
日本が国際的に孤立し、無謀な行動(石油などの節約)にでたのは、「我が子を餓死させる思慮の足りない親」だったからです。
そして、少し高度なことになりますが、石油が社会のドライビングフォース(活動の源)になっている時に「脱石油」をするためには、「せきゆを使わざるを得ないから、石油を使った方が勝ち」ということです。つまり、もし脱石油には今の都市を「脱石油型」に変えなければならないとすると、石油を使った自動車や建築機械を使わざるを得ないことも私たちは考えなければなりません。
かくして日本社会は1990年代から不景気になり、リストラが進み、就職率が下がり、国際競争力を失い、規制でがんじがらめになり、経費はかさばり、何でも自粛するようになり、ますます形式化して、それが今回の大震災(地震予知の虚偽)と原発事故(安全神話)になったのです。
親の責任は大きいと言わざるを得ません。私たちの目標は贅沢ではなくても、額に汗して働くことができる社会、老人になって突然、哀れにならない社会だったはずです。
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別の機会に書きますが、「人生や家庭は節約するほど幸福になるけれど、競争社会は節約したら衰退する」ということなのです。
「競争社会では哲学者は死ぬ」というのも事実で、「人格高潔、戦争を好まない民族」は、かならず「利害優先、好戦的民族」に滅ぼされてきたというのが歴史です。
このような関係を解消しようという理想に燃えて第二次世界大戦後に国連ができたのですが、まだ、その域には達していません。それどころかイラク戦争や温暖化騒動などを見ると、むしろまだ人類は国連の場を利用して競争社会での利害を追求している段階です。
「理想に燃えて飛び跳ねたことをすれば、結局は次世代に大きな災厄をもたらす」というのも歴史の示すところです。人間の心は一人ずつ過去を引きずっているので、現状を打破したいという希望はあるものの、それは多くの人の心の変化に沿ってしか進まないのです。
未来の理想に対して強固な信念を持ち、それに向かって突き進むのですが、現実は徐々にしか変わらないという事実を認める胆力も必要とされます。
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現在の日本の「もったいない、節約」という考え方は、官僚の天下り先を作る利害と、理想を追う庶民の心を巧みに操作したもので、世界の進歩と隔絶しているという点では日本は衰退の方に舵を切っており、それは私たちの子供や孫が世界から取り残される結果となるでしょう。
大震災と原発事故は私たちに、東大教授や霞ヶ関のお役人の個別の利害のために現実を見失い、子供たちに被害を与えてはいけないという点で大きな教訓を残しました。今こそ、私たちは日本の常識は世界の非常識であり、子供たちは衰退に向かって進んでいることを知らなければなりません。
ところで、東大教授や霞ヶ関の高官が現在のように極端に自分の身だけを大切にして、社会的責任を果たさなくなったのか、このことについてはまた別の機会に書こうと思っています。とにかく、彼らが仕組む「日本人の美しい心」につけいる方法について私たちはよく心得ておく必要があるでしょう。
(平成24年4月27日)