タバコのことをブログに書き始めて、今回、初めて「感情的ではない反論」を多く寄せていただきました。次回は反論を十分考慮して副流煙のことを書きたいと思います。今、準備中です。

 

また、野菜についてもいろいろなご意見をいただきました。これも、前進しそうです。

 

ところで、私のブログの書き方に不十分な点があることに気がつきました。それは「学問」、「学説」、「知」などを少し曖昧に使っていたことです。私が今まで「学問」と言って来たのは広辞苑などの広く用いられる定義で、「確実な理論やデータで体系化された知識と方法」であり、「学説」は「学問的手法である結論が得られたものだが、まだ学問としては認められていないもの」で、「学問としての知」とは「学問として体系化された人類に財産としての知」という感じだった。

 

ところが、「学説は学問の中に入るのか?」と言うと、一般的な受け取り方であれば、入るような気がする。というのは、実は「確実な理論やデータで体系化された知識や方法」を学問とすると「学説」はまだ「学問を取り扱う学会などで広く認められていない段階」のものがあるので、「学問になりかけている学問の仲間」となってしまうからである。

 

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たとえば、ガリレオが「地動説」を唱えたとき、「天動説」が学問としては主力であったから、「天動説」が学問で、「地動説」は学説だった。地動説は「科学的手法を用いて厳密に証明されていた」から、その意味では学問だったが、宗教家ばかりではなく当時の天文科学者もただちには「地動説」を認めなかった。

 

そのうち、地動説と天動説が同じぐらいの認知度になると、2つの学説と呼べるようになり、現在では「地動説」は学問であり、「天動説」は歴史的に存在した間違った学問であったことが明らかになっている。

 

「学者」というのは「学問を扱う専門家」を言うとされているので、学者は「体系化された学問」を知っており、「それと違うか同じかは別にして自らの学説」を持っている場合がある人ということになるだろう。

 

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学者が学者として直接、社会と関わることはそれほど無かった。時に、啓蒙家として「体系化された学問を社会に伝える」ということはあっても、自らの学説だけをそのまま社会に伝えても混乱を呼ぶばかりだからである(混乱を与えることが良い悪いではなく、混乱するという事実は間違いない)。

 

考えてみると、私は学者だからと思うけれど、学説が直接、社会に発信されるときに抵抗するような気がする。たとえば「リサイクルが資源を節約できる」というのは「資源学、熱力学(エントロピー)、分離工学」などと真っ向から対立する新概念なので、私は強く抵抗した。

 

自らの計算結果が「リサイクルは資源を浪費する」というものだったので、余計に激しく反論したのだが、私の呼びかけは「学者の皆さん、これまでの学問と反することだから、これまでの学問を否定してください」と言った。私は学者なので、学問的な論理と方法にもとづく論文は理解でいるはずだが、リサイクルが資源を節約できるという論文は理解できなかった。

 

被曝も同じである。これまでの「学問」では「もっとも確実と考えられる被曝の被害の防止方法は1年1ミリを限度とすることだ」という定説があり、各国がそれに従っている。学説としては1年20ミリもあるが、それは学説であり、いつの日か学者の間でそれが定説になるかも知れないが、今はそうではない。

 

その時に、社会に直接「学問」に反することを「その学問に携わる人(たとえば放射線に関係する学者)」が自らの学説だからと言って学説を社会に直接、言いうるのか? または、社会的に学問の決定に基づいて決まっている法律に反することを国民に勧めることができるのか?という疑問を呈しているのが私である。

 

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ところで、副流煙について従来の学問があったかというと、これは難しい。これまでの学問では「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中に猛毒なものは含まれていない」とされていた(正しかったかどうかは別である)。これに対して副流煙が健康に著しく影響を与えるということになると(正しいかも知れない)、「植物の幹や葉を燃やしてでる煙の中でも特殊な植物の場合は猛毒物質を含むことがある。たとえばタバコの葉である」と修正する必要がある。

 

そのように学問が変わるとすると、一般の植物の幹や葉の成分とタバコの成分の比較、それが燃焼したときにできる物質の同定と定量などが必要である。

 

でも、メールをいただいた方の反論を読むと、このような学問を問題にしているのではなく、「煙のほとんどない社会では、煙は不快である。もしくは病気の原因になりうる」ということのように思う。つまり、副流煙の是非は学問の問題では無く、社会の変化に伴う容認性の問題の様に感じられる。

 

この種の問題に、スギの花粉による花粉症、清潔な環境下におけるアトピー、臭いの少ない街角における汚穢回収などがあり、これらは社会問題としてとらえるべきであろう。

 

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次に野菜と健康の問題だが、野菜は健康に良いという「学説」は多くある。また、野菜をとることによって健康になったり、病気が治ったりする人も多数おられる。だから「野菜をとると健康になる」という可能性はあるが、同時に「野菜を増やすと情緒不安定になる」とか、さらには「野菜を多く食べると成績が悪くなる」などの可能性は残る。

 

野菜を取ると健康に良いかどうかは主として「コホート研究」という手法が採られる。これは大勢の人を2群などにわけて、その結果を整理する疫学的な方法で、広く学問の一つの手法として認められている。しかし、この方法には注意すべき点がある。それは、第一に「何かを変数にしたときに、それ以外の変数が同時に変わっていないか」ということ、第二に「結果の整理が特定の影響だけに限られていないか」ということである。

 

かつて「ベッドに寝ている時間が長いほど寿命が短い」というコホート研究の結果があったが、後に「ベッドで長く寝ている人には病人が多い」ということで否定され、「病人を除いた研究」が行われている。

 

このような極端な例は別にしても、人間が生活するパターンは多種多様であり、多数の人間を調べたからある結果だけ取り出せるという手法はどのような制限をおかなければならないのか、まだ結論は出ていないように思う。

 

もう一つは「野菜を食べると健康になるか」ということで、確かにその時の「健康」というのが「高血圧」を指標にすると改善されているかも知れないが、同時に「頭が悪くなる(血の巡り)」とか、「情緒不安定になる」という欠点があるかも知れない。私が学生に注意することだが「自分が考えている因果関係に囚われていないか?」というのは学問ではもっとも大切なことと思う。

 

また、個人差をどのように考えるかもある。たとえば特定の野菜の中に含まれる元素を取りにくい体質の人が野菜を食べると体調が良くなるということはあっても、その元素を取り込みやすい人にとっては野菜は害になるからだ。

 

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そんなことを言っていたらキリがないと思われるかも知れないが、実は社会の片隅で苦しんでいる人がでる一つの原因として、あまりに単純な現象を社会全体のように複雑な対象に無批判に使うということがある。

 

「野菜を食べると健康になる人がいる、もしくは多い」、「タバコの煙で障害を起こす人がいる、もしくは多い」と言うことはある。しかし、「だから野菜を食べろ」とか「副流煙に接しなくてもタバコを吸うこと自体が悪い」ということになるのか、そこをこれからも慎重に検討していきたいと思う。

「takeda_20120215no.424-(13:24).mp3」をダウンロード

 

(平成24214日)