学者としての私は学術論文を書くのだが、その時には厳密な実験の方法を記載し、これまでに公知となっている関連の論文を引用する。それには一定のルールがあって、論文を引用するときの句読点の付け方まで決まっている。学生が論文を書けるようになると、句読点を教えるのは私たちの最初の仕事でもある。

 

しかし、私がテレビで発言したり、一般向けの書籍に何かを書くときには、いちいち出典を示すのではなく、むしろ私自身の考えを述べ、膨大なデータや理論のうち、「私が正しいと思ったもの」を短い時間で話す。

 

そんなところで具体的な論文を示しても、視聴者や読者がそれをチェックすることはできないので、「私が信頼できなければ聞いたり、本を読んだりしない」という方法しかない。

 

そこで私は時には出典を言うことがあるが、普通は自分の考えとして述べる。たとえば「ツバルは温暖化で沈んでいるか?」ということに関しては、自分でポリネシア・ミクロネシアなどの書籍を読み、国連に届けられたデータを見、インターネットで調査し、小林先生に直接お話をお伺いし、ハワイ大学などの論文を読み、そして「沈んでいない」と話をし、本を書く。

 

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誠心誠意、やっているのだけれど、それでもバッシングが来る。それもとうてい「正常」とは思えないような、人格批判、口汚い罵りなどが多い。時には日本人とはこんなになってしまったのかというほどのものもある。

 

「口を極めて人をののしる」というのと、「冷静に他人の意見を批判する」というのはかなり大きく違う。表現の自由の方が大切だからあまりやらない方が良いが「罵り防止法」が必要ではないかと思うことがあるぐらいだ。

 

私はあまり気にならない方だが、テレビ局は「批判される」ということに過敏だ。影響が大きいことと、テレビ局にはスポンサーがいること、さらに担当者がサラリーマンであることなどから、防衛的になる。

 

個人がテレビにでて、政府と違うことを言うと、政府筋からも体制派からも厳しい電話がテレビ局に来る。「一個人の考えを公共性の高い電波に乗せるなどケシカラン!」という訳だ。

 

放送や記事にはすべて「出典」を求め、その出典はできる限り「公のもの」が良いとされる。もっとも公的なものは政府の高官の発言や刊行物、もしくは学術論文であり、それはマスコミが自由な報道を失ったことを意味している。

 

実は、「政府とは違うではないか!」というクレームは憲法違反である。現在の憲法はかつて情報が政府や軍部に握られたという苦い経験をもとに「表現の自由」、「学問の自由」、「言論の自由」などを最優先していて、公共の電波であろうとなんであろうと、放送局は自由にその権利を主張できるようになっている。

 

というよりむしろ、もともと報道機関として認められているところは、表現の自由の強い権利を有していると言えるだろう。ところが、それを自ら放棄したのが現在の日本のマスコミであり、それを促してきたのがほかならぬ国民であるように思える。

 

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さらに傑作なのは、地球温暖化騒動の時に、日本の中では「温暖化すると南極の氷が融ける」という「常識」が広まった。そうなると、マスコミはIPCC(国連の機関)の報告に「温暖化すると南極の氷が増える」と書いてあっても「日本の常識に反する」ということで、報道しなかった。

 

また、原発事故ではIEA(世界エネルギー機構)が「日本の原発が止まっても電気が不足することはない」と報告しても(3月15日)、東電が「足りない」というとそちらを報道する。

 

国際的な情報が少なく、かつお金不足で自分で取材はできず、専門性が不足して自分で計算する力がないという3重苦にあえぐ日本のマスコミは、どうしても「人の顔色」を伺って報道することになる。

 

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でも、解決策はあるのではないか?

 

NHKを別にすれば、国民は真実を報道していないと思ったらそのマスコミを見たり読んだりしなければ良いので、あまり細かくクレームをつけているとかえってマスコミを追い詰めてしまう。

 

「日本のマスコミはダメだ」と言われるが、実は国民が気弱な「草食系マスコミ」を追い詰めたようだ。

 

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実は学問の自由で守られている大学や学会ですら、「政府に逆らうと研究費が」ということで政府の政策にすり寄る傾向にある。何から何まで「お金」に縛られた日本社会を、「お金より重要なこと」はなにかそれをハッキリしないと、マスコミの再生はできないだろう。

 

(少しややこしい内容なので、今回は音声をつけました)

 

 

「takeda_20110825no.114-(4:42).mp3」をダウンロード

 

(平成23826日)