このところ10年以上、天気予報というものを聞いたことはない。時々、大型台風が来るようなときにはニュースで進路予報を聞かないこともないが、毎日の天気予報を見たことはない。
天気予報を見ない理由は簡単でバッグの中に超小型の傘が入っているからだが、それも時々、忘れることがある。そんな時でも急な雨に遭うことといえば1年に1度ぐらいだが、その時には「ずぶ濡れ」になることにしている。「酔えば吐く」と同じように「驟雨はずぶ濡れ」と決めている。
ずぶ濡れになるもっとも良い季節は11月だ。少し肌寒く、雨も冷たい。そんな時、駅から暫く歩くとだんだん靴がぬれてきて、そのうちにはズブズブになる。背広もぐっしょりと重くなり「ああ、これもこの背広も終わりか」と今月の残りのお金を思い浮かべる。
家に帰ると、まずはすっかり冷たくなった手でお風呂を沸かし、濡れた服を脱いで暫く待つ。体は冷え、傍らには無残に下着やシャツが積まれている。
20分ほど経って風呂が沸きそこに体を沈めると、冷えていた体が徐々に温まり、指先までジーンとしてくる。私が「ああ、生きていて良かった!」と思う瞬間だ。
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平凡な毎日が続いている。朝、ニュースや天気予報を見るとすべての情報が提供され、今日もまた昨日と同じ時間が流れる。生きているようで生きていない。喜びがあるようで本当にうれしくない。
でも、たまにずぶ濡れになるとその日は非日常になり、私に生きている実感を与えてくれる。
そして、これはおまけだが、その後しばらくは友人とお酒を飲むとずぶ濡れは格好の酒の肴になる。「いや、もうムチャクチャ、全部ダメになったよ」といいながら飲む酒はまた格別だ。
毎日が同じように流れる現代。あまりに整った日常で、感激は故意に「すべきこと」を外すことによってのみ与えられるような気がする。それは物にあふれると心を失うのに似ている。
(平成23年8月25日)