ウソの原理(1)では、なぜ、エリートサラリーマン、中央キャリヤ、そしてこともあろうに校長先生が「やらせ、ウソ」をするのか?という疑問を少し整理した。
ここでは、彼らは、やらせやウソが社会的にいけないことであり、自分がそれをしていることを知っているのに、「やらせ、ウソ」を繰り返している理由をさらに解明していきたい。
なんといっても、こんな悪い日本、崩れた社会を、私たちの子供に引き継ぐわけには行かないからだ。
・・・・・・・・・
「やらせ、ウソ」をするひとは、特徴がある。それは、
「自分が「正しい」と思っていることは、誰がなんと言おうと正しい。自分の意見と違う人は間違っている」
と考えていることだ。
「なにが正しいか?」というのは自分が決められるものではない。遠い昔から正しいと決まっているもの、全員が正しいとしていることなどが正しいのであって、「自分が正しいと思うから正しい」という理屈などあるはずはない。
「自分が決めたから正しい」とすると「自分は全員である」ということになり、ありえないことだ。
もともと民主主義や選挙などの現在の社会制度というのは、「人によって正しいと思うことは違う」というのを大前提にしている。昔は「殿様が言われたことは正しい」という時代もあったが、今ではそんなことを言う人はいなくなった。
でも、実は日本の指導者は自分を殿様と思っている。
小さい頃から学校の成績が良く、痛い目に遭うことが少なく、すくすくと育ち、それでいて正義感、道徳観などが希薄な人材群なのである。
彼らの頭脳の構造は、一言で言えば「ヨーロッパ流」だ。どんなに残虐なことをしても、それを巧みに正当化する論理がそれである。
インドを支配していたイギリスは、インドの産業を発展させないように腕の良い職人の手首を切り落とした。この行為はやがてイギリス流の巧みな論理で正当化される。
言語の麻薬、論理の麻薬とも呼べるヨーロッパ流にはまると、「他国を自由にするために職人の手首を切り落とすことはやむを得ないことであり、正しいことだ」となるのだから、たいしたものである。
・・・・・・・・・
実は世間でよく見かける夫婦げんかにも似たところがある。
夫婦というのはもともと男性と女性のカップルなので、体のつくりはもとより、考え方や性質などが違う。
違うから一緒になって生活をする。女性は血管が細く、代謝量が少ないので、発熱量が小さい。だから、クーラーに弱い。男性は血管が太く、代謝量が大きいので、体内で燃える炭素量が多く、体温は上がりがちである。
こんなことはわかりきっているのに、「暑い、冷える」とケンカになる。だから、「自分に快適に」、「自分が正しい」と考えているなら結婚もしないほうが良いし、無人島に住んだ方が良い。
時々、学生でまるで自分しか視野にない若者がいる。ひとしきり彼の熱弁を聞いて、私はよく次のように言う。
「なるほど。君の考えも一理あるね。でも、誰もいないところで生活をすることを勧めるよ」
・・・・・・・・・
「偉い人」には抜き差しならぬ欠陥がある。それは、「自分は他の人より偉い」との確信があり、従って「多くの人はバカだ」と言うことになる。
そして、その人が教育者であっても「バカは教えても理解しない」と固く信じている。
「原子力はエネルギーのない日本にとって大切だ。ただ、原子力を怖がっているバカな人にそれを言っても理解できない。だから、だませば良いのだ」
「民主主義は「民」が「主」だって? それは、そういう形をとっておけば多くの人からお金を巻き上げることができる方便だ。マスコミを使って幻想を巻いておけば、民主主義ほど都合のよい体制はないよ」
このように考え、信じている人にとっては、原発の再開を説明する会というのは、単に庶民をだますチャンスでしかないし、教育基本法の改正のタウンミーティングも同じである。
だから、そこでも「だまし」や「ウソ」は正当化されるのである。
彼らは「やらせメール」がバレルのはまずいと思っている。それは「悪」がばれるからではなく、「やらせメールをすることは正義だが、それがばれるのは都合が悪い」ということに過ぎない。
教育基本法の改正もおなじだ。どのように改正すれば良いかは「指導層」だけで決めればよく、そんなことを国民に聞く必要は元々無い。でも、体裁としては民主主義の形をとるのが都合がよいので、やらせ発言もそれ自体が「悪」ではなく、やらせ発言をしたことがばれるのが都合わるいのだと思っている。
・・・・・・・・・
これまでも、ズッとこの手のウソが日本社会をダメにしてきたが、「そんなことがあるはずがない」というまじめな多くの人が、実はこのウソを守ってきたのだ。
哀しい・・・
でも、福島原発で偉い人がウソをついたり、姑息な細工が明るみにでて、「こんなことがあるのだ」ということがわかった。
私たち大人は事実をはっきり認識して、大人としての責任を果たす時期に来たように思う。
(平成23年8月1日 午前10時 執筆)