先日、貯金のことを書きました。読者の方から金融や経済について、いろいろ教えていただきました。
私は数年前、s「国債は買ってはいけない」という本を東洋経済新社に勧められて書いたのですが、その意味は「経済活動を解明する」という目的ではなく、「国民が日本社会を作ることができるのか?」ということでした。
つまり、日本の国債は日本人が買って、日本人が消費しているのですから、ヨーロッパの金融破綻のように国の財政が破綻するということではありません。
また、多くの人が銀行にお金を預けるのは、単に「家においておくと盗難にあうから銀行に預ける」というような意味もありますし、また銀行にしてみれば、お金の運用は預金者の同意がいるわけではありません。
そのような基本的なことがわかった上で、「私たちの預金は、結局、日本社会にどのような影響を与えているか」ということを考えてみたのです。
つまり、お金はその意図とは別にして、社会的にある影響を与えます。その影響のことを考えるのは大切だと思っているからです。
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かつて、日本は「お金が足りない状態」にありました。つまり「やりたいこと」が多く、「お金が足りないからできない」ということだったのです。
そこで多くの企業が頭を下げて銀行に行き、お金が手に入れば自分がしたことができたのです。
ところが、1990年頃から、日本社会は成熟し、「やりたいこと」が少なくなって「お金」が余ってきました。
「お金が余る」というのも変な話です。多くの人はその日の生活がやっとで、お金が余っているという感覚はないのに、日本全体を見ると、お金が余っているのです。
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なぜ、お金が余っているのでしょうか?
その理由は、個人としては、
1) 将来が不安だから、今日、お金を使うのは止めておこう、
2) あまりに金融が不安定だから、何を買っておけば財産になるのかわからない、
ということが主だと考えられます。
もし、土地か金を買っておけばいざというときに役立つなら、土地でも買っておきたいと言う人もいますが、何しろバブルが崩壊して痛い目に遭って不安定です。
かといって株も不安定、外国債券となるとさらに危険ですので、金融の素人でなくても、仕方がないから銀行にでも預金しておこうかということになります。
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ところが、銀行にお金があっても、それを借りる人がいない・・・・・・ここまではおそらく多くの人が同じように考えているでしょう。しかし、その次、私の考えは次のようなものです。
・・・本当は、日本人一人一人が本当に自分が満足するような「豊かな」生活をしているわけではない。それは心だけではなく、物質的にもそうだ。
もし、物質が豊かなら危険な原発などせずに、もっと安心して生活ができるはずだが、少しでも安い電気がいるといって、原発事故が起こった後でも無理矢理、玄海原発を動かそうとしているのだから、心ばかりではなく、物質も豊かではないのだろう。
「お金が余っているのに、危険な原発を動かそうと、やらせメールをする」
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でも、このような状態は、私にはどうしても奇妙に感じられます。
お金が余っているなら、もうなにも要らないのですから、原発を止めて安心した生活をすればよいし、無理矢理、屋根に太陽電池をつけて、高いお金(他人が払う)で電力に買い取ってもらわなくても良いように思います。
しかも、「余っているお金」は「貸すところがない」ので、仕方なく「赤字国債」を発行して、94%が赤字になる国家事業するというのは論理の整合性がありません。
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なぜ、「お金が足りず、お金が余っている」という奇妙な状態が続いているのだろうか?
なぜ、「その「なぜ」が、「なぜ」はっきりしないのだろうか?」
そして、「なぜ、危険とわかったのに、まだ原発を進めたい人がいるのだろうか?」
最後に、「なぜ、こんなに簡単なことが疑問のまま残っているのだろうか?」
それは、おそらく現代の日本は日本人が主人ではなく、どこかに主人がいるからではないかと思います。
このようなことを一つ一つ、解明していかないと、なかなか原発を進めたいという空気を消すことができないと思うからです。
(平成23年7月27日 午後5時 執筆)