先日あるテレビでわたくしが「教育基本法に「家庭」という一文字を入れたほうがいい」と言いました。
教育基本法は日本の教育を決めるもっとも重要な法律ですが、ご存知ない人が多いので、何を言っているかわからないと思いますが、戦後作られた教育基本法には「個人」の大切さしか教えなくて良いという事になっているのです。
かつて、戦争の前の教育勅語には、個人、親、兄弟、夫婦、友人、地域、それに国家が教育内容に含まれていたので、それぞれのことのもつ重要性を小学生や中学生に教えていました。
教育の方法は直接的に教師が話すのではなく、昔話や逸話の形で子供たちがそれらの大切さを感じるようにしてあったのです。
教育勅語自体はなにも問題もなかったのですが、ある時にこのうちの「国家」を過度に強調しすぎたことがありました。それは教育勅語の問題ではなく、その利用の方法ですが、戦争のショックがあまりにも大きかったので教育基本法ができる時に、「国家」ばかりではなく「家庭」のことは一切とってしまったのです。
教育基本法に書いていないので、教師は自分の判断で家庭のことを教えることはできなくなりました。
わたくしは大学で教鞭をとっていますが、大学ですら学生の家庭のこと、兄弟、友人のことを質問することは許されていないのです。
社会では、家庭のことなどはプライバシーの問題として片付けられますが、教育の基本は「学力」ではなく「人格」なので家庭とまったく切り離された教育はなかなか困難です.
かつて、小学校や中学校では「昔話」などを使って家庭や親子、友人の関係がいかに人生で大切なのであるかを教え、それには自分自身が我慢しなければならないということも繰り返し教えたのです。
我慢して幸福な人生を送るという基本的なことは、別に軍国主義とかと繋がるわけではありません。
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ところが驚くべき事に、現代の日本らしく、ご都合主義だけには「家族」を使うのです.
それは「臓器移植の時に家族の同意を得る」というものです。
私はこのことに驚いています。臓器移植の時に家族の同意を得れば良いというのは、日本の教育、法律と大きく異なると思うからです.
現在の日本では、教育、成人、結婚、家庭などについて、「家族」という概念をほとんど認めていないのです。その家族が突然、臓器移植の時だけでできて、今までほとんど関係のなかった家族に本人の臓器提供の可否の決定をゆだねるのはいかにもご都合主義です.
家族が本人の臓器移植を認めることができるのであれば、普段の生活から助け合い、仲良くやることになっていなければなりません。
現在の個人は、家族とも友人とも全部切り離されて、社会でただ1人、自分だけいるという構成になっています。
そして、その個人を助けものは「権利とお金」だけという設定なのです。「権利とお金」だけあれば良い、家族の紐帯も愛情も要らないというのが、現在の教育基本法の基本精神です。
私は日本の深い病根の一つに、家族無視という概念があり、それを早期に修正しないと日本は繁栄しないと思うからです.いわゆる「進歩的(本当は進歩的ではなく、単に物まねをしているだけ)」と言われる人たちは、「幸福な結婚」より「不幸な結婚」の方が良いという発言をし、書籍を多く執筆しています。
多くの日本人は、幸福な結婚、穏やかな家庭、仲の良い兄弟、信頼できる友を希望していると確信しています.そして「不幸な結婚、争いの多い家庭、仲違いする兄弟、裏切る友」が良いという人たちに負けたくないと思います.
(平成23年2月22日 執筆)