あるテレビを見ていましたら次のような話題と取り上げていました。

・・・夫は朝起きて朝食をそそくさと食べ、すぐに仕事に出て行ってしまいます。夜も遅く帰ってきてそのまま寝てしまう毎日でした.

子育ても大変で、私は狭いマンションの中で1人で子育てとか家事をやり、心身ともに疲れ切っていました。

でも、そのことを夫に話すことも躊躇されたのは、夫も仕事にいっぱいで、ギリギリでやっていたからです・・・

これが昔のように大家族だったり、実家が近いとか、友人が多ければ何とかなったでしょう.でも、実家から遠く離れた夫の勤め先ですから、周りに友人もなく家族と話すこともできず1人で悩んでいたのです。

その主婦があるときに街に出て、ふとパチンコ屋に入ります。そしてパチンコ台を前にしたとき、人でも動物でもないそのパチンコ台が自分を受け入れてくれることに気がついたのです。

それからというもの。その主婦はパチンコにのめり込み、やがて家族が心配して、主婦の行動を監視をするようにもなりました。そしてついに主婦は家族の目を盗んでトイレの窓から外に脱出してパチンコに行くというところまでになったとのことでした。

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この話を聞いてテレビのコメンテーターと私は違う結論になりました。

テレビのコメンテーターは、

「パチンコとはひどいものだ。パチンコ依存症の悲劇を無くすためには、パチンコを追放しなければならない」

と言っていました。周りのアナウンサーや他の人もおおよそこの意見に同調したのです。

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一方、わたくしは、その主婦が本当に可哀想に思いました。おそらく、子育てに疲れ、夫に言えず、狭いマンションで地獄のような毎日を送っていたのでしょう.

夫も自分自身の仕事がギリギリなので、きっと妻も一所懸命やっていると思っていたのでしょうし、気がつかなかったのもやむを得ないと思います.。

こんな時、人間の社会がもう少しまともなら、その人の行く先はどこでしょうか?

まず、第一に親しい友達とか相談できる人、尊敬できる人のところに行くかも知れません。昔なら村の小学校の先生や駐在所のお巡りさんも話し相手になってくれたでしょう。

次に頼るといえば、神社、お寺、そして教会のようなところです。悩みを持つ人が仏さんや神様の前に立ち、心を打ち明け、助けを求めることができます.でも、最近では教会に行くとなんとなく「信者を増やしたい」ということで親切にされるような気がするのです.

さらに自治体や相談窓口、病院なども、なにか冷たい感じがします。第一、受付自体が合理化され人間味が無く、冷たい感じがします。

わたくしは、この現代の日本の政府社会では、「弱い個人が悩んだときの行く先」がないと思うのです.弱者切り捨ての社会:それはお金ではなく心の暖かみの方なのです.

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かつてある大学の管理を担当しているとき、軽い犯罪を起こして警察のお世話になった大学生がいました。

大学の学則には「学生の本分に悖るものは退学させる」という条項があり、教授会は学則に基づいてその学生を退学させようとしました。

わたくしはその時、教授会で「もしもこの学生を退学させたら学生は一体どこに行くのか? 今のままでは悪い組織に入るしかない。もし退学させずに学生を先生が指導することができれば、学生を更正させることができる。それこそ大学がやるべきである」と頑張りました。

これをわたくしは当時「大学修道院説」と言って先生方を説得したものです。

現在の社会に、宗教も修道院もものもありません。でも、人間はあるときに非常な苦境に陥ちいることがあります。その時に人間は助けがいるのです。

それが現在では、パチンコ台だったのです!!

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この放送を聞いてパチンコに関係する人にお聞きすると、実はパチンコ台というものには「癒しの効果」があるということでした。

現在の社会は人間関係で疲れてしまうことがあります。そんなときに、神様の前に静かに座って心を落ち着けるのが良いのですが、現在では何をするにしても「他人」が出てきます。

ところが、パチンコ台は静かに本人の望みを叶えてくれます。それで彼女はほっとしたのです。まさにパチンコ台は誰も分かってくれない自分の悩みを理解してくれる友達のように思われるのです

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「パチンコ台が救い主になる」という状態を私が良いと言っているのではありません。パチンコ基本的には遊戯ですから、遊技に癒やしを求めることは正常ではありません。

でも、現実にはこの社会に苦しんでいる人を助けることができるのは、パチンコ台だけだったという事実を真正面から受け取る必要があると思います.

わたくしたちは次の事を深く考える必要があるでしょう。

戦後の日本社会は、「個人」以外の全てを排斥しました。親、兄弟、家族、友人、地域、国・・・すべては要らないもの、社会は「個人」と「お金」だけで成り立っているということで統一してきたのです.

子供を育てることすら「子育て資金」とか「子供は社会が育てる時代」と言われています.

あるいはそのような社会は「強い人」には心地よいかも知れません。広い家、仲の良い家族、十分な生活費、多くの友人などに囲まれている人はどんな社会でも困ることはありません。

でも、そうでもない人も多いのです.辛い人、弱い人に損得なし(信者が増えるとか、給料をもらっているとか)に助けの手を述べてくれるところを作ることができないのでしょうか?

「パチンコ依存症の人がいるからパチンコを排斥すべきだ」という道筋は実に冷たいように感じられます.

あの主婦を助けてくださったパチンコ台にお礼を言うと共に、私たちはパチンコ台に変わる人間らしい社会を作りたいと思うのです。

(平成23221日 執筆)