あるテレビで最近の学生はさっぱり勉強しないという話になりました。

この話題は、大学を出た学生の就職率が60%と非常に悪い原因の一つに現在の学生が勉強しないのだから当たり前だということがきっかけでした。

同じような考え方を多くの大学の先生が持っておられるので、わたくしもそのような見方があることはよく知っています.

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しかし、かつて学生がよく勉強したのは現在と違う理由の場合が多いのです。

例えば、自分が大学に行くにあたって、ご両親のお金だけでは足りないので親戚等から応援を得て、やっと東京の大学に勉強に行くというようなケースが昔は多くありました。

親戚の人にお金を出してもらわなくても、家族が苦労して自分にお金を出してくれることを十分に知っている学生は、自然によく勉強しまし、また親の苦労を目にして自分の子供の時にはもっと楽に大学に行かせてやりたいと決意したわけです。

つまりハングリー精神で勉強したのであり、勉強が好きで勉強したのではないのです。

これに対して現在のように子供を大学にやっても、親は昼間にグルメで楽しむというような生活になりますと学生自身も緊迫感がなくなってくるのは当然です。

つまり社会の変化に対して、かつてハングリー精神で勉強した学生がそれとは違う理由でよく勉強する理由があるかということを考えなければなりません.

人間はモチベーションがなければ頑張ることはできませんし、ましてもし大学での講義が「つまらないもの」なら、頑張る方が変人だとも言えるからです.

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このように時代が変わり社会が変われば学生を取り巻く環境も変わります。その時に教育をする人たちは学生が勉強する新しいモチベーションを考えていかなければなりません。

現在の社会で学生が勉強に夢中になる理由はあまり見あたりません.大学の時には学問の面白さを感じるレベルまではいかず、むしろ「試験のための勉強」になるので、それは「まともな人間」にとっては苦痛なのです.

そこでわたくしは10数年前から試験によって勉強させるのではなく、学生自身が心の中にある「勉強したい」という気持ちに訴えることにしています。

それには、当たり前のことを丁寧に説明しなければならないのですが、それを続けています.

つまり、お金に余裕のある社会ではハングリー精神は期待できないのですから、その代わりに「何のために勉強するか」ということを、わたくしたちを教える方(教師)がはっきりしとかなければいけないからです。

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この問題は学生の勉強ばかりでなく、いろいろな生活の面でこのことが言えます。

例えば「節約が大切」という考え方は昔はとても大切した。物が不足しお金が足りなかったわけですから、家族が心を一つにして節約をすることによってやっと生活ができたのです。

ところが、現在の日本では「日本人全体が使うお金」よりも「日本人全体が稼ぐお金」の方が大きいのです。当然、余ります。

その結果、現在では60才以上の人の金融資産が、国民全体の金融資産の50%を超えてしまいました。

60才以上というと年金世代です。つまり人からお金をもらう立場にある人たちの金融資産が、お金を出す人たちの金融資産よりか多いという奇妙な状態になっているのです。

お年寄りに年金を払うということはお年寄りが貧乏だからというのが前提ですが、現在ではお年寄りの方が豊かで年金を出す若い人の方が貧乏だという逆転現象になっているわけです。

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どうしてこうなったかというと、「豊かな時代にわたくしたちはどういう基本的な道徳をもって生きるのか」がはっきりしていないからです。

昔の状態の時に大切だった節約を上げても、お金があまるだけで物事は解決していかないのです。

時代の変化とともに我々は考えていかなければならないことをさぼった結果、多くの人が節約をしてお金があまり、そのお金が銀行を通じて国家に行き、国家はそれを返すことができない事業に使い、最終時にその借金はわたくしたちの子供や孫たちに行くという事になっています.

社会全体の変化に対してわたくしたちは新しい人生の生き方新しい道徳のあり方を考えていかなければなりません。それができずに「学生が勉強しない」と文句をいっても意味がないのです.

私はこのブログを通じて「豊かな時代のまともな人生」、「日本人は収入をどのように使えば良いか」を考えてきました。

お金が余るとそのお金が銀行を通じて国に行き、単にお金をもらって生活する人(役人)が繁栄し、増えるだけでした。

その一つの結果が環境問題にあり、多くのお金が無駄な環境問題に費やされてそれだけ天下りや、何の役にも立たない活動で人を苦しめる結果になりました。

まともなのは「額に汗をして働き、そのお金で満足できる生活をする」ということです。わたくしたちにとってその「満足」とは何かということをもっと踏み込んで議論しなければならないと思います。

(平成23215日 執筆)