(子供) 年老いた父母をいたわり、かつて自分を育ててくれた恩を返し、そして父母を送って弔うのは、人間として、日本の子供のもっとも大切なことでした。
(お母さん) 子供を愛し、全てを子供のために犠牲にし、その成長を楽しむ、それが日本のお母さんの当たり前の姿でした.
でも、2010年に驚くべきことが判明したのです.100歳を超えた自分の父母が生きているのか亡くなったのかにも関心が無く、その父母の年金をかすめ取ろうとする60歳、70歳の人が多くなったことです.
自分を産んでくれて育ててくれた母親が死んでも、弔いもせず、そのまま押し入れに入れて置く。お母さんにしてみれば、自分の息子にされることですから、悲しいけれどあきらめるでしょう.
でも、「人間にすることではない」のは明らかです。死んだ人を弔うのは、15万年前に繁栄したネアンデルタール人からで、考古学の本には、「人間としての感情が芽生えた」ことが「死者を弔う要になったことの理由」とあります。
つまり、「人間としての心」を持っているなら、親しい人の死に対して、自然に弔う心がわいてくると言うのです。それ以来「死んだ人を弔うから人間だ」と思われてきました。
でも、「人間の心を持たない人間」が現在の日本にいるということですし、それは、親の方にも及んでいます.
幼い子供を2人、マンションに閉じ込め、ドアーにテープを巻き、餓死させた母親。その泣き声を聞いても助けられない近所の人・・・
こちらの方は「子供を大切にするのは生物の原理原則」というのを覆しているのですから、さらにビックリします.「お年寄りに席を譲らない」とか「礼儀を知らない」などということとはレベルの違うことのように思われます.
繁栄の陰ですさんだ日本社会に多くの日本人が唖然とした2010年の夏でした.
石原都知事は一連の事件を論評して、「日本人は地に落ちた」と嘆いていましたが、私には実に無責任な発言に聞こえました。
年老いた父母の生死を知らず、お母さんが我が子を餓死させることを「望んだ」のは、日教組ばかりではありません。保守派と見られる石原都知事をはじめとした日本の政治家、自民党、そして日本の国民だったからです.
都知事のコメントは次のようにあるべきと思います.
「大東亜戦争の後、日本の社会と教育が目指したものは「家庭の崩壊と親子関係の断絶」だった。それがこのような形になって表れたことに、私は祝意を表したい.我々の60年の努力が報われたのだ。」
奇妙に思うかも知れません。しかし親を捨て、子を捨てることを戦後の日本は「最善」としてきたのです.だから、「太陽の季節」などの自由奔放な若者を描き、その後、政界で指導者の立場にいた石原都知事にしてみれば、自分が望んだ政策が、現実の姿になったのですから、それを嘆くのはおかしいのです。
でも、このような魔珂不可思議なことが起こるのはどういうことでしょうか? それを理解するために、まず、教育勅語と教育基本法から検証に入りたいと思います.
明治時代に定められた「教育勅語」に書かれていたことを抜き出すと次の項目になります。
「父母に孝行、兄弟仲良く、夫婦協力、友人信義、慎み深い行動、博愛の手、学問を学び、職に就き、知能を啓発し、徳と才能を磨き、世のため人のため、遵法精神、公に奉仕、忠と孝の道」
これと比較して、戦後に定められた教育基本法の目的を同じく項目に羅列すると次のようになります(注:教育基本法は平成18年度に改正されていますが、ここで論じるのは改正前の教育基本法のもとで教育を受けた人を対象としているので、改正前の条文を使用しています)。
「人格の完成、平和な国家と社会の形成、真理と正義を愛し、個人の価値、勤労と責任、自主的精神、健康な国民」
この2つを比べると、教育とは「学問を学び=真理、職に就き=勤労、徳=人格、順法精神=正義」が大切で、それらはほぼ同一の目的になっていることが分かります。
もし、明治の教育勅語と戦後の教育基本法の違う点を強調すれば、教育勅語では、「父母、兄弟、夫婦、友人、慎み深い、博愛、世のため人のため、公に奉仕、忠と孝」など、「自分より他人」が強調されています。
これに対して教育基本法では、「平和、個人、自主精神」など「個人」が大切とされているという差が見られるのです。
このことはすでに多く指摘されていて、戦前の教育が「全体に奉仕する個人」を目指したのに対して、戦後は「個人がもっとも大切」という教育に変化したのです。
その中でも特に際だつことは家庭と個人の関係です.
教育基本法でも「平和な国家と社会の形成」や「勤労と責任」など、「社会と個人」については言及していますが、「家庭、友人」などの「自分に近い存在」に対する恩、感謝、関係などは全部、削除され、いっさい記載されていません.
大東亜戦争のおける310万人の犠牲というショックが日本に大きな影響を与えた結果ですが、もちろん「全体に奉仕する個人」という概念が戦争をもたらしたわけではありません。
全体が「平和」を希求していれば個人は平和を望むのですから、「全体」と決めたからといって戦争になり、「個人」を重視すれば平和がもたらされるのでは無いからです。
でも、歴史的な経過が「全体」から「個人」に教育目的を変えたことは事実ですし、それを現在でも支持する日本人が多いのです.
そして、平成18年度の教育基本法の改正でも、この点はまったく変わりませんでした。当時の衆議院の勢力分野は自民党が郵政選挙で圧勝した後ですから、改正教育基本法に「家族」を入れなかったのは、保守的な教育を支持して国民から多数を得てきた自民党の選択でもあったのです。
都知事のコメントがおかしいというのは、家族を無視するという方針は「圧倒的多数を持っていた自民党の判断」だったからです。
私はまったく違う考えを持っています。少しずつ書いていきますが、家族、友人、周りの人こそ私たちの最も大切なものと思います.
(平成22年11月30日 執筆)