ある人間の集団には「芋ずるの原理」があることを書きました.それは私の経験からいっても良いことによう思うからです.
私が言う「芋づるの原理」というのは、ある組織を良くしようとしたら「悪いところ(芋づるの下の方)」を叱ったり罰したりしないで、「良いところ(芋づるの上の方)」を持ち上げれば、全体がズルズルと引っ張られて、悪いところも自然に無くなるという私の経験です。
最近流行している民主党の「事業仕分け」も役人の悪いところを白日の下にさらすのには役に立ちますが、国家全体を良くすることは難しいでしょう。
この「仕分け」というのは悪いところを指摘するのですが、私が推薦する「芋づる方式」では、「日本は未来に向かって何をするか」ということを決めていくと、自然と「ムダなことをする時間」がなくなる・・・そういう方法です。
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ところで、「芋づる方式」は「個人」にもよいように思います.
人間の集団もそうですが、一人一人の個人にも「欠点」と「長所」があります。もともと欠点というのは、本人が直そうとしてもなかなか直らない性質の時が多いので、欠点を直そうとすると苦痛を感じます。
でも、長所はその人にとっては自然に身についたことでもあるので、それを伸ばすのにはそれほどの苦痛は感じないものです。長所といっても無理に長所を探したりはしなくて良く、たとえば「生きている」ということだけで長所です.
「芋づる方式」ですと、欠点には目をつぶり、その人の長所だけを伸ばしていきます.また長所が見つからなければ、欠点を誰かが補えばよいのではないかと思うのです.
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私の経験を一つお話しします.
かつて、ある学生を教えた頃のことです。その学生は、実験は熱心で、真面目なのですが、なにしろ英語がまったくできないのです。
私は工学部にいましたし、しかも大学院の学生ですから、ある程度の英語ができないと学業を続けるのに不便なのです.
その学生は自分が英語ができないことをよく知っていて、とてもそれが苦痛なのですが、なにしろ、中学生の頃はあまり真面目では無かったので、その時期に英語が不得意になり、そのまま大学院生になったというわけです。
彼は研究生ですから、論文を出す必要があるのですが、論文を出すときには英語の「アブストラクト」が必要です.そうなると、その英語ができないので論文を出したがらないのです。
研究はしっかりして良い結果を出しているのですが、ただ「外国語が不得意」というだけで、彼の大切な発見が世に出ないということです。
ノーベル賞をもらった日本人の学者の中でも英語が不得意の先生がおられたように、工学と英語とは一応、別のものです。
そこで私が代わりに彼の論文のアブストラクトを英語で書いていました。
それを見ていた研究室の若い人が、
「先生、そんなことしても良いのですか。彼の勉強になりませんよ」
と批判していました。普通に考えればその通りです.
でも、私は少し教育方針が違っていました。
この世には語学ができる人もいれば、数学が得意な人もいます。全ての人が語学も数学もできなければならないなどということはありません。日本人だけでも1億人を越えるのだから、難しい数学が必要な時には、数学が得意な人にやってもらったら良いと思います.
たとえば、日本人で数学が得意な人は50万人ぐらいいるらしいので、その他の人は足し算とかかけ算ぐらいでもそれほど社会は曲がらないでしょう。
また、「数学は論理的な頭脳を作るのに役立つ」と言われますが、数学以外の勉強でも論理的な思考力をつけることができます。だからあまり「教育方法」を一律にしない方が良いと思います。
さて、彼ですが、2年ぐらいの間、私が彼の英語は担当していましたが、彼にとって見ても自分が遣るべき事を、まるで「下請け」のように指導教授にやってもらうのが心の負担だったのでしょう.
ある時に、「先生、今度は私が書いてみます」と言いました。私は「ああ、そう」と言いましたが、内心は「良かったな」と思ったものです。
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人には欠点と長所がありますが、多くの人は自分の欠点が分かっているものです。それを追求せずに、そしてあまり負担をかけないようにして人生を送ることができるものだと私は思っています.
でも、可哀想なことをしました。その学生は私が彼の代わりにやることで、心に負担を感じていたでしょう.本当はそれ(心の負担に感じること)もいらないと私は思うのですが・・・
(平成22年11月16日 執筆)