昨日、つまり2010年11月3日だが、フジテレビのホンマでっかTVで北名古屋市の「回想法」を紹介した。

簡単に言うと回想法とは「昔のことを思い出すと年配者が元気になる」ということだ。そんなことは昔から分かっていると言われそうだが、それを行政として現実的に、かつ積極的に行っているという点で北名古屋市は評価できる。

また、この回想法をさらに進めて老人性痴呆の治療などにも役立てている.

北名古屋市は「昭和博物館」というところで、昭和の初めから半ばにかけて使われていた家庭の道具や電化製品、それに町並みそのものを保存して展示している.そこに来ていた5人ほどのご婦人たちは懐かしいやら悲しいやらで大いに盛り上がっていた。

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そこから少し離れたところに「かつての庄屋の家」を少し改良し、土間、台所、縁側、畳の部屋、茶室、庭などでゆっくりできるところと、小さな小学校の教室があった。グループで「回想」を楽しんでいると言う.

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素晴らしい試みでこれがさらに拡大し、進化して行くことを強く希望している。現実にご年配の方の顔が輝いていた.

素晴らしい! でも、私はまったく別のことを感じた。

このブログの「老婆の時間」というところで書いた(かなり前なので、すでに写真などがリンクしていない)が、「大学生の時間」と「老婆の時間」は人生にとって価値が違うのだろうか?

年を取ると人間の価値が下がるのだろうか? 老婆の時間は大学生の時間に比べてなぜ「劣っている」のだろうか? みんながそう思っているので、社会は老婆が忙しく動くようになっていない。

人生が80年として、かつてと違い、「仕事をして一所懸命になって生きる人生」だけでなくなっているのは確かである。1920年、日本の女性の平均寿命は43才で、子育てがすんだらすぐ人生は終わった。

当時はそれが社会だった。

でも、今は違う.だから、43才から先の人生についてもう少し真剣に考えなければならないだろう。

年齢別人口分布を見て、どの年齢の人も等しく楽しんで人生を送るような仕組みはできないだろうか?

老人は健康にも問題があり、足腰も痛い。でも、幼稚園児だって自分でなにもできないし、いろいろな制限がある。でも、社会は幼稚園や小学校の子供は「将来がある」ということで惜しみなく活動をするけれど、なぜか老人は「去ってくれ」と言わんばかりである.

回想法の施設を見て、私は第一に次のような感想を持った。

1)   老人が元気を無くすのは、年を取るのではなく、社会が「年を取った人はいらない」というメッセージを継続的に流すからではないか?

2)   「懐メロ」や「昭和博物館」は経過的な行政の施策としてはとても良いが、結局は「年配者は過去に閉じこもれ」と言っているのではないか?

ということだった。

つまり、テレビで年配者用に「懐メロ」の番組をするのではなく、60才から70才向けの「新曲」が若者向けの新曲と同じ数、同じ質で提供されることだろうと思った。

お婆さんのお金は孫のお小遣いで使うのではなく、お婆さん自身の人生のために使うのが正しい、それでこそお婆さんの人生というのがある、それには何をしなければならないのだろうか?

私は今、思案中である.

(平成22114日 執筆)