大航海時代のヴァルトゼーミュラーの世界地図を見ながら、当時の世界の情勢を俯瞰しておきたい。この世界地図は、かのコロンブスのアメリカ大陸発見の直後、1507年に作られたものである。
アメリカ大陸はまだ「細く」描かれ、日本のところは「海」になっている。
16世紀に始まった欧州の大航海時代は欧州列強がアジア・アフリカ諸国を制圧しつつ進み,19世紀初頭には有色人種の国で独立を保っておるのは,エチオピア,タイ,清国(支那)そして日本の4カ国となっていた.
これらの諸国のうち,エチオピアはアビシニア高原の風土病の地として畏れられ,もともと欧州諸国は侵略の意図はなかった.また,タイ・・・当時はシャムと称していたが・・・はバンコク朝が成立しイギリス国とフランス国のアジア支配の緩衝地帯として独立国の面目を保っている状態であった.
一方、「清国」はすでにイギリス国や他のヨーロッパ諸国の餌食となっていて,事実上,独立国とは言えない状態だった.
じつに世界の有色人種の国でその国民が統治しているのは日本が唯一という異常な状態に追い込まれていたのである。ヨーロッパ人とはいかに膨張主義、植民地主義、そして帝国主義であったことが分かる。
だが,ヨーロッパ諸国の名誉のために若干の事情を述べ立てると,ヨーロッパ諸国による世界制覇もそれほど容易に進んでいない.
航海術が進歩した大航海時代の「航海」とその前の時代のものは全く違う.その好例がマルコ・ポーロだが.中国の泉州から1290年にイタリアに帰還する時,彼に従って出帆した船は14隻,食糧2年分、そして船乗りは600人であったが,3年後にペルシャまで辿りついた時には哀れ18人、さらに2年後にヴェネチアに着いている。
このほかにも悲惨なる航海は数知れず,その屍を越えて航海術が発達し、さらに蒸気機関が加わって彼らに力を与えたのである.
ところで、ここでは他の歴史書と違って、政治や経済の動きを中心にせず、真に近代日本の歴史を動かしたことを、技術や文化、そして日本人の気質も含めて、バランス良く記述するつもりである.
スームビング号の江戸回航では政治的,経営的に見るべきことがあった.それは,先に書いたように何でも幕府のお達しを待たなければならなかった時代に,永井玄蕃頭が独断専行でオランダに製鉄所の建設機械を発注したことに見られる.
アジア諸国があれほど容易にヨーロッパ諸国の荒波に耐えられなかった一つの原因は,宮廷内の争いに明け暮れ,国を思う忠臣がいなかったこともある.
フィリピン,インドネシア,インドシナ,ビルマなどの東南アジアの国々は,それぞれ王朝を持ち,政府や軍隊も存在したが,とてもイギリスやオランダの効率的な攻撃に耐えられなかった.
攻撃と外交の攻勢に、ただ右往左往のまま内部崩壊したのである.
アヘン戦争の前後の清国をつぶさに見ると,清国にはかなり前から「洋務運動」というのがあり,「中体西用」,つまり「支那の儒学に基づく制度や伝統を守りつつ,西洋の科学や技術を採用する」という命令が皇帝から出されていた.
これは、
「西洋は火砲・軍艦では支那にまさるが,政治・社会の制度では遠く支那に及ばぬ.夷狄の長所を採って支那の短所を補えば自強は達成できる」
と考えたのである.ところが清国が遅れていたのは技術ばかりではなく,精神面、そして政治・社会体制そのものも大変遅れていた.
日本にもこれに相当する「和魂洋才」という言葉がある.同じく漢字の文化をもつ支那と日本の四語熟語を比較すると,その後のこの2つの国の運命を納得するのである.
社会は「人民の心,社会のシステム,技術」があるが,中国は「技術」を洋に求め,「心とシステム」は自分の国に固執した.日本は「システムと技術」を取り入れ,「心」だけは守るとした.それは清国人が「弁髪」にこだわり,日本人が明治に入るとまもなく「ザンギリ頭」にしたこともその一つと考えられる.
下関戦争では若い高杉晋作が、敵の艦船上で戦争敗北後の折衝にあたり、ほとんどは敵の言うとおりに条件をのんだが、日本の領土の一部を租界地などに提供しなかったと、その後、伊藤博文が高杉を評価している.
そして、永井玄蕃頭は肝心なところで独断専行している。和魂洋才は貫かれていたのだ。
(平成22年10月18日 執筆)