日本人は選挙権を持つ20才になるまで自分の自由はいくばくか制限されている.義務教育中は学校に行かなければならないし、18才までは「親権」のもとで生活をすることになる.
でも、選挙権を持つということは「民主主義」の中では「主人」になることだから、法律に違反しない限り、誰でも自分で自分の人生の「幸福を追求する権利」を持つ。
選挙権をもつ日本の国民には、「納税の義務」と「勤労の義務」が科せられる.「教育の義務」は「学校に協力する」というような社会全体のこととしては残るが、自分にとってもすでに関係が無い.
その反対に憲法は広い自由を与えている.
思想、良心、信教、学問、表現、集会、結社、通信(秘密)、職業選択、居住移転、外国移住、国籍離脱、財産権、法的手続き、裁判を受ける、証人審問、弁護人依頼などが積極的な自由と権利。
奴隷的拘束、苦役、拷問、残虐な刑罰などを受けないという権利.
実に広い.つまり日本人は自分の考えにそって自由にその人生をおくることができ、その中で自分の幸福を追求しても良いことになっている.
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難しいのが「愚行権」である。この「愚行権(ぐこうけん)」というのは、「社会、または他人が「愚かな行為」と思うものでも、一人前の人間はする権利がある」というものだ。
愚行とは、「冬山登山」、「飲酒」、「喫煙」、「冒険」、「診療拒否」などが「本人には合理的な理由がある愚行」として今まで議論されてきた。
また、「賭博」、「売春」、「自殺」、「臓器売買」などが社会的な悪、もしくは宗教的な愚行としてとらえられ、「自己奴隷化」、「自傷」、「同性結婚」などは「異常な性癖」として考えられてきた。
1917年にアメリカで定められた禁酒法が有名だが、「飲酒」は時に社会がヒステリックになったときに「愚行」とされる。たとえば中世ドイツではあまりに「神」との関係が強く求められ、「飲酒は神に対する罪」として刑罰に処せられた。
これは有名な中世ドイツの「泥酔者の檻」で、飲酒は神への罪として泥酔者を町中に晒しものにしていた(イエス・キリストは飲酒を楽しんでおられる)。
だから、愚行権もかなり幅があり、そこで「愚行をあまり厳しく制限しない方がよい」という人と、「愚行は一切、許さない」という人がいるのでややこしい。
現代の日本で「愚行」とされているのを羅列すると(なかなか難しいが)、
【許されていること】
登山、冒険、海水浴、飲酒、自殺、
【少し嫌みを言われている程度】
ダイエット、ニート、
【かなり、法律・村八分などで制限されているけれど現実にはあるもの】
賭博、売春、メタボ、同性結婚、健康診断を受けない権利、
【かならず罰せられるもの】
ゴミの分別、電気のつけっぱなし、喫煙、大麻、痲薬、助手席のシートベルト、
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このように「愚行」というものをリストアップすると、
1) 動物のように単に「生存する」ということ以外の行為
2) 「標準」から外れる行為
3) 他人に迷惑をかけると思われている行為
4) ある集団の思想信条に反する行為
5) 特定の団体が利権を採れる行為
などに分類できそうである.
世の中には登山が好きな人がいる。ただ生きるだけの人間なら登山は不要なことだが、人間には心があり精神がある。登山をすれば遭難もするし、山もそれだけ荒れる.
でも、登山は「愚行」ではないと私は思う.
世の中にはお酒が好きな人がいる。ただ生きるだけの人間ならお酒は不要なことだが、人間には心があり精神がある。お酒を吞めば人に迷惑をかけるし、時には酒気帯び運転も起こる.
でも、飲酒は「愚行」ではないと私は思う.
賭博、売春、痲薬などはやはり社会的な影響が大きいので、「自由」というわけには行かないような気がするが、最近の日本は中世のドイツのように「私は嫌いだ」とか「分別させると儲かる」ということを「道徳の問題」まで高めて、国民個人個人の「幸福追求権」を奪っていると思う.
メタボなどはその典型的なもので、「美味しいものを食べて腹回りが90センチになってはいけない」という「愚行」があるのだろうか?
喫煙もついにタバコの値段を大きく値上げするところまで来た.禁煙運動家にはそれなりの理屈があるように思うが、私にはなにか意地悪にしか感じられない。
もう少し、なんでも自由に個人が判断して、ノビノビと楽しく生活できる社会は作れないものだろうか?
むしろ、「こうしたら、こうなる」という情報を「細工しないで」国民に提供してもらい、その情報を元に個々人が判断できる方が大人らしい生き方だろう。
(平成22年10月16日 執筆)
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