今の日本人に「日本は植民地にならなくて良かった」と言うとキョトンとする人が多いだろう.でも、20世紀の初め、アジアで本当の意味で独立していたのは日本だけと言っても良いほど、ほとんどの国は植民地になり、だから発展が遅れた.
では、「なぜ日本だけ」なのだろうか?その一つの答えが長崎海軍伝習所にあった。
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伝習所での勉学の第1の難関は言語であった.通訳がオランダ語を訳すのだが,技術の言葉が分からない.ましてアラビア数字が混じった数式がでてくるので、当時の武士には理解はできなかった.
ただ,勝海舟など優れた日本人数名がオランダ語に通じていて,何とか教練は続いていた。オランダ人教官の名誉のために付け加えれば,日本人を教える教官の使命感と忍耐力も驚嘆すべきものであると言わざるをえない.
語学での苦労に加えて,次は学問そのものの基礎という意味でも苦労の連続だった。
第1期の武士が学んだ長崎海軍伝習所ではオランダ海尉艦長ペルス・ライケンが高等代数学を教え,教科書にはオランダ海軍のピラールの航海術書を使った.航海術に必要な学術は、基礎算術、代数、幾何、そして三角関数で、どれももとより西洋数学であった。
日本には「和算」と呼ばれる独自に発達した数学があったが、和算と西洋数学ではその概念も数式もまるで違っていた。それでも、結果的にみると、そろばんという和算に長けていた小野友五郎が最初に数学を覚えたと記録されている。
どうも、数学が得意というのは先天的で、和算の小野が洋式算術でもトップだった。
さらに教育が難しくなって、微積分を学ぶようになるときに、ニュートンの微分からはじめて積分に至る。著者が大学で数学を学んだ経験から言えば、微分より積分の方がやっかいだが、日本には積分学を関孝和の流派がかなりの程度まで進めていて、日本人には積分の方がなじみがあったようだった。
積分をこなすアジア人、これもオランダ人にとっては脅威だっただろう.そして、幕府から命ぜられて伝習所に集まった諸藩の武士の中でも佐賀藩士が抜群だった。
佐賀藩にある反射炉での大砲鋳造の経験のある本島藤太夫や島内栄之助,理化学研究所・精煉方から佐野常民や中村奇輔,石黒寛次,田中儀右衛門親子が参加していた.
しかも佐野常民と石黒寛次が造船と蒸気学,本島藤太夫は砲術と数学などと専攻科目を分担して学ぶという用意周到さで,特に勉強家であった中牟田倉之助は航海や数学を専攻していたが,
「オランダ人教師が帰るのを門の外で待ちかまえて専門書を借り,宿に帰ると夜、それを書き写して勉強した」
と記録されている.
日本人というのは本当に素晴らしい.
それでも,オランダの教官の不満はひととおりではない.カッテンディーケ卿や教官のライケンは,「日本人水夫は雨の日には実習を渋り,海に出ようとしない」,「大部分の学生は出世の足場にしようとしか考えていない.将来士官になるには一通りすべてを学ぶべきなのに『拙者は運転技術は学ぶが,ほかはやらない』など,勝手なことばかり言っている」とぼやいている.
ともかく,彼らは蒸気機関とそれにヨーロッパが大航海時代から蓄積してきた航海術,運用術,造船術,砲術,船具学,測量術,算術,機関学を一から学んだ.
日本人は飽きやすいという欠点をもっているが,同時に自分の身の回りに何が起こっておるのか,それをどのように解釈すれば良いのかを直感的に理解する能力には天才的で,世界でも日本人だけといっても良い。
その一つの例が,軍艦スームビング号の理解である.日本人は初めて見るこのお化けのような鉄の固まりさえ、当時の記録を見ると、
「どうも,この真っ黒で強大な力を出す軍艦というものは完成品ではないらしい.その巨大さにおいては奈良の大仏殿のようなものであるが,大仏殿を造ってその中に金属で鋳造した大仏を納めれば,それで終わりである.
しかし,オランダの軍艦というものは,たいした威力ではあるが,絶え間なく破損や故障がおこり,これを直ちに直さなければ木偶の坊のようになんにも役立たないもの」
とすぐに悟ったような気がする.
訓練を受ける武士が悪戦苦闘している間、長崎海軍伝習所では「素晴らしい事件」が起こっていた.
伝習所が作られた安政2年、永井玄蕃頭は、
「海軍を興せば,即ち造船所を設けざるを得ず,是により在崎の日,長崎奉行とこれを談じて協せず,この故に職権専断,蘭師に託し造船製鉄の器械を蘭国より購ず」)(永井玄蕃頭尚志手記)
として独断専行,造船製鉄の機械の輸入を決断したのである.
いや、これには驚いた.
国のために自らの出世を危うくするようなことを官僚がするのはアジア諸国,とりわけその中でも最大の版図を持っていたお隣の清国においても到底,想像できない.もっともそのような英傑が一つの国に何人もいるとは思えないが、「温和直諒にして徳あり」と言われた永井玄蕃頭の残された写真を見るとそんな行動を取るような感じはしない。これも歴史の力かもしれない。
ちなみに、永井玄蕃頭の墓は今でも西日暮里の本行寺にある.
永井玄蕃頭の独断専行により1859年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになる.この情景を造船所を訪れたイギリスの軍医レニーは驚愕の内に次のように述懐している.
「8月7日長崎の日本蒸気工場を見学.これはオランダ人の管理下にあり,機械類は総てアムステルダム製であった.所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが,なかなかの広さであった.
そして,この世界の果てに,日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異であった.」
この鎔鉄所は後に栄光の三菱重工業長崎造船所となり,1942年には世界最大の軍艦「武蔵」を生むことになる。
(平成22年10月11日(月) )