サンデル教授の同性結婚についての私の論評(2,3日前のブログ)に一部,不十分なところがあり、それを読者の方からご指摘を頂いた。

以下に、読者の方のご指摘の一部を示す。サンデル教授がお話になったことが見事に正しく纏められているので。

「サンデル教授が同性婚の話をもち出したのは、議論の流れから、政治が道徳について善悪の判断をすべきでないというリベラル派への反論のためです。

この裁判で、最高裁はリベラルな立場から、同性愛については、個人の選択の自由や道徳観の問題であって、政治がそのような問題に立ち入るべきではないとの立場から、同性婚を擁護しました。

結婚の目的論で、「生殖目的論」と「二人のパートナーの独占的愛情関係の祝福」で対立したようですが、裁判所は後者を採用しました。

前者をとれば、一夫多妻制なども容認されることにもなってしまいます。ただ後者で、「パートナーを男女に限る」とするかは、判断の分かれるところだと思います。

この議論では、結婚の目的が問われましたが、いくらリベラルな立場をとろうとしても、政治は目的論や道徳的価値判断から逃れる事が出来ないということをサンデル教授は示したかったようです。

教授は学生から出てくる議論を踏まえて、政治哲学の核心まで迫っています。なお、サンデル教授は「政治が道徳的善悪に立ち入るべきではない」というアメリカの主流となった政治哲学に疑問を呈しています。」

私もまったく同じように受け取りました。

従って,私の数日前の文章表現の中に不正確なところがありました。読者の方がまちがってサンデル教授のお話になったことを記憶されるといけないので、掲載しました。

・・・・・・・・・

ところで、私の文章が足りなかったのですが、言いたかったのは次のようなことです。

「結婚という制度を国が維持して認知している理由」は「子孫を増やすことをもって善とした社会(時代)に、その行為を社会的に祝福するという制度」であると考えている。

また、結婚という形の正式な制度に則ったものは社会の秩序を乱さないが、「制限に反する結婚(内縁,不倫、父親が分からない子どもなど)」や「完全に自由な性交」は社会の安定を乱すという見地から、制度としての結婚と区別をしていると考えられる。

このような社会の認識が時代とともに変化するのは当然であり、(私には理解できないが)アメリカが同性の結婚を認める方向に行っていることは「アメリカはそうなのだな」と理解する。

それはアメリカが日本とは違う社会だからだ。それも問題はない。

・・・・・・・・・

問題はこの次にある。

アメリカのハーバード大学での講義では、「普遍的な学問」として講義され,語られることが多く、それが「現代のアメリカに限定される」という意識は低い。

ところが、講義されている内容は「現代のアメリカに限定されている」ことが多く、それが学生の錯覚を呼び、さらに学生が社会人になり政治に関わるようになると,「アメリカがスタンダードである」、「アメリカの文化や道徳が正しい」ということになり、現代の世界の不幸の多くがもたらされていると私は考えている。

サンデル教授が言うように「多様な価値を認める時代」であるとされること自体がアメリカ的であり、もともと世界は多様な価値を認め,狭い社会では価値観を統一して生存を図ってきたに過ぎない。

サンデル教授や講義を受けた学生に「あなた方が今、考えていることは普遍的なことですか」と聞けば、ハーバードの学生は特にエリート意識が強いので「そうです」と答えるのではないか、そしてこの様子を見た日本人が「日本もそうしないと」と早合点するのではないかと心配した。

・・・・・・・・・

私は、「結婚」は両性をもつ人間の生物としての正常な姿(男性と女性の結婚)だけを「社会の制度となり得る」とし、同性結婚やその他のものは「単に、一緒に住んでいるだけ」と言うことで法律的な保護などは与えないのが適切だという判断である。

男性同士が一緒に生活しても,「性行為」を伴わなければ「同居」である。しかし、「男性同士の性行為」というのは性行為ではない。

・・・・・・・・・

最後に、日本では「政府や公共放送としてのNHKが道徳や個人の価値観に抵抗なく入り込んでくる」という事に対して、疑問を呈し、それが「社会的に求められているもの」なのか、「ある特定の思想や利権に結びついているのか」について、厳しく議論する必要があるというこの読者の方のご意見には大いに啓蒙された。

ご意見をお寄せいただいた読者の方に深く感謝して筆を置きたい。

(平成22622日 執筆)