ハーバード大学の政治哲学のサンデル教授の講義はなかなか聞き応えがあった。ハーバードでの最終講義は2010年6月に放映されていて、そこで一つの例題として「同性の結婚を認めるべきか」ということで白熱した議論が行われていた。
多くの人はその精緻な議論に感心していた。生殖、紐帯,個人の価値観,宗教、正義、政治などが多岐にわたり議論のテーマとしてはふさわしい。
そして教授は論理的に話していたが、教室の雰囲気としては「同性の結婚がなにが悪い」ということだった。
私はガッカリした。いかにもアメリカらしい議論で「自分たちの国だけが世界で唯一の国だ。だから、自分たちの議論は、どの国でも適応される普遍的なものだ」という傲慢な心が見えていた。
教授は盛んに「多様な価値観の時代」と言っていたが、それは頭の中だけの空想に過ぎず、議論はアメリカの基準を全面に出していた。
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結婚は異性同士であり、それを国家が祝福する。この祝福するというのがキリスト教の影響で「神が祝福する」という意味で使われていた。
しかし、法律や規則で結婚を定めて、それに国家がある「資格」や「権利」のようなものを認めるということだから、祝福は神ではなく,その社会を構成する人が祝福するのだ。
それではなぜ異性同士の結婚が祝福され,同性の結婚は忌み嫌われるのか?それを盛んに議論していたが,ここはバカらしくて聞いておられなかった。
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少し前まで人間は戦いの中にいた。そこでは隣の部族に殺されるか、殺すかの世界だった。1950年までそうだったし、今でもアフガニスタンなどで戦争が行われている。
戦争で勝負を決める第1要素は「人口」である。人口が多ければ食糧も多く集められるし、戦いにも勝てる。だから、国家の第一目標は「産めよ増やせよ」だった。これにキリスト教を入れると「地に満てよ」となる。
男女が結婚しないと子どもはできない。だから、男女の結婚を祝福するのだ。それは「結婚してくれないと、民族が滅びる」からに他ならない。
ハーバードでは、このような意見はでなかった。でない理由はアメリカはすでに人口が多いからだ。でも、まだ未開の国は人口の多さが国が栄えるかどうかを決める。だから、結婚が祝福された。もし、現代の社会で「子供を増やすこと」が社会にとって祝福するに値しない場合、それはいつ転換したのかがもっとも重要だ。
つまり、この講義は、1)歴史や貧乏な国がまったく視野に入っていないことと、2)屁理屈(それでは子どもを生めない男女の結婚は許されないのか)で主要な議論を避けたことなどが目立った。
低級というのは失礼だが、あまり良い講義ではない。このような議論をしているアメリカは、また多様な価値観を認めずに、戦争をするだろう。
法律というのは例外がある。男女の結婚は子どもができる可能性のある行事が行われることを国家で祝すということだが、もちろん、歳をとって子どもを生めない男女の結婚もある。
でも、それは例外的なものとして認めている。子どもを生めない男女の結婚を認めて,男と男の結婚を認めないのは、「男女の結婚がその国を栄えさせるから国家が介入する」ということであり、その男女には年齢制限とか、身体の不具合などはあまり厳しく言わないということなのだ。それで基本が変わるわけではない。
それともともと男と男の結婚を認めるのは違う。
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筆者の考えは、子どもができることを前提とした男女の結婚は国家が認め、それ以外のさまざまな結婚かそれに似たことがあるだろうから、それは「個人の勝手にやってくれ」ということだ。
男同士が同居することがある。それと男同士の結婚とどこが違うのか,それも議論には不足していた。
でも、この講義は、ハーバード大学の格調高い講義室,日本と違った熱心な学生と、日本人がもっている抜き差しならない茶髪主義から、日本でも評判になるだろう。
そしてウッカリ屋が「同性結婚、夫婦別姓」などと叫び,さらに日本を悪くすると思う。
(平成22年6月20日 執筆)