多くの日本人が「資源が無くなる」と信じていて、「このまま消費生活を続けると、豊かな生活は終わりになる」と思っています。
その原因の一つは、1972年に出たメドウスの「成長の限界」という本にあります。一昔前には一世を風靡したこのベストセラーも若い人で知らない人が増えたのですが、簡単に言うと次のようなことが書いてありました。
「このまま大量生産をつづけると、21世紀の初めには環境が汚染され、さらに21世紀の前半に資源が無くなり、30億人を超える餓死者がでる」
というものです。
この思い切り暗い予想は、「暗い予想が大好き」という人たちに受け入れられ、さらには「シッカリ本を読んだ人がいない」という異常な状態のまま、結論だけが全世界に拡がりました。そこには「危険を煽る」のが得になると考えている商業主義のマスコミが活躍したのは言うまでもありません。
同じことが温暖化でもあります。
20ページほどの薄いIPCCの報告書には「温暖化すると南極の氷は増える」とハッキリ書いてあるのに、日本人のほとんどの人は報告書を読まずにNHKの報道だけで、「温暖化すると南極の氷は減る」と10年以上も勘違いしていたことと同じです。
実は、メドウスの本には次のような「但し書きの仮定」が書いてあるのです。
「もしも、今の科学技術、環境技術、社会などが、このままそっくり続いたら」
あることを予想するときに,『将来は・・・のようなものができて、今とは変わる』とすると、予想したものができないことがあるので、「今の科学技術,社会」を仮定せざるを得ないのです。
たとえば、メドウスが予想したときには『携帯電話』というのがありませんでしたから、中国や中央アジアなど広大な土地をもつ国が経済発展を遂げ、そこに住む人たちが「電話」を持つようになると、金属の「銅」はたちまち無くなると予想されていました。
中国全土に電話線を張り巡らすには膨大な銅が必要となりますし、銅という元素は火山の噴火によって地中深くから地表に上がってくるものなので、到底、資源が足りないのです。
ところが、1990年代になって携帯電話が急速に普及しました。それで「銅の消費予想」はすっかりと様変わりして,「銅が枯渇する時期」というのはズッと先になりました。
「予想」というのは実に難しいものです。「現在、無いもの」を仮定するのはいかにも乱暴ですし、かといって「10年先にノーベル賞をもらうもの」を仮定するなら、予想する人がノーベル賞をもらえるはずです。
つまり、簡単に言うと、「ノーベル賞があると言うことは、人間が新しいことを見いだすことを認めている」ということになり、「予測するときに、新しいことを考慮に入れない」ので、つまりは「予測は当たらない」という結論に達するからです。
予測というものが本来、当たるか当たらないかということは別にして、日本人の多くがメドウスの予測に怯え、洗脳され、そして「資源はそのうち無くなる」と信じたのは間違いありません。
メドウスは1970年に「今の状態がそのまま続くことは無いとは思うけれど、もしもそういうことがあったら」という気軽な気持ちで予測したのかも知れませんが、それに飛びつくと儲かる人が多かったので、思わぬ反響が起こったのです。
ところが、世の中には偉い人がおられるもので、「メドウスの予測は大切だが、予測は予測なので、その結果を検証してみよう」と思われた先生がおられます。
当時、東京大学教授だった増子昇先生で、「サイアス」という科学雑誌の2000年4月号に驚くべき表を書いておられます。
メドウスはおおよそ1970年頃に予測計算をしたのですが、その後、増子先生が2000年に表を作られるときに,1995年のデータを整理されています。
まず、銅ですが、1970年に推定されていた銅の埋蔵量は約3億トンでしたが、1995年には埋蔵量は約6億トンと2倍になり、生産量は経済発展とともに少し増えているものの、資源が枯渇するまでの年数は36年から61年に増えているのです。
普通の人は「寿命が36年」と聞くと、1970年から1995年まで25年も経っているのですから、36から25を引いて、「銅はあと11年で無くなる」と計算するでしょう。
でも事実は違ったのです。
この傾向は銅ばかりではなく,鉛も亜鉛も同じでした。つまり、「資源寿命とは、人間の寿命のように「80歳になったら死ぬ」というのではない」ことを示しています。
平均寿命が80歳の時、70歳の人が「俺もそろそろあと10年だな」と思っていて、実際に80歳になると、平均寿命が3歳延びていて、やれやれと言うことはあると思いますが、80歳になると平均寿命が90歳になり、90歳になると平均寿命が110歳になっているのですから、いつまでも死ぬことができないことになります。
資源寿命というのはそういうものだいうことを増子先生は示してくれています。もちろん、全ての資源がいつでも銅と同じと言っておられるのではありません。物事はそんなに単純ではないから、予測は必要だが、一つ一つ実証していくことの大切さを教えて頂いています。
筆者もこの教えを参考にして、2000年に「ペットボトルをリサイクルすると、新しく石油から作るのに比べて3.5倍の石油を使う」と「リサイクルしてはいけない(青春出版、後に2009年に「その「エコ常識」が環境を破壊する」として改題して再出版)に書いたのですが、それを2007年に出版した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか(洋泉社)」で検証したところ、実績では7倍から8倍程度という結果が出ました。
予測も無駄ではありませんが、予測したらその後で検証するという謙虚な態度が必要なのです。
「資源は30年ほど経つと、資源寿命が2倍になる」というのは、幾ら考えにくくても,また常識に反していても、銅、亜鉛,鉛については事実なのです。
この結果を筆者なりに考えてみました。
ポイントは「お金」にあります。資源というのは航空機から見るとどこにあるかはっきり判るというものではなく、多くは地中深くボーリングして捜さなければなりません。
もちろん土は不透明ですから、手探りで掘っていくことになりますので、膨大な経費がかかります。もし、50年先に必要になる資源を探査すると,50年間は収入が無いのですから、資源探査に要したお金の金利を払いつづけなければなりませんし、第一,手持ちのお金を使わずに塩漬けにしておくのと同じです。
また、人間には寿命というのがありますから、50年先の仕事をしたいと思う人も少ないのです。
つまり、資源寿命とは「探査し、環境アセスメントをし、地元の政府の掘削許可を得るのに必要な最低の年限」を考えて、ギリギリに探査をスタートすることで決まっているのです。
資源寿命も「予測」することができます。地形とかマグマの通り道などから「このくらい」と推定すると、「根拠が無い」とか「予定通り行かないとどうするのか」などと反撃されます。
また、「資源会社」は常に「資源が無い」と言うことになっていた方が値段が上がるので、好都合です。だから、資源会社はわざわざ自分の損になることをしませんので、結果として、資源寿命はいつでも20年とか30年になってしまうのです。
1970年にメドウスが「資源の不安」を示しましたので、各国政府も資源探査に力を入れて、増子先生の表のように50年、60年という数字が出てきましたが、また「喉元すぎれば熱さを忘れる」のことわざ通り,資源寿命は30年ぐらいまでに減ってくるでしょう。
(平成22年6月13日 執筆)