世論操作の応じて真っ先にその世論操作に従って先兵となったのが、小学校を中心にした先生方と、自治体の役人だった。 どちらかというと社会を指導する立場の人たち・・・先生と役人・・・が真っ先に洗脳されて,家畜化したのか? それには理由がある。でも、その話をする前に,「職務と正義」について若干、触れておきたい。 また「家畜化」という言葉も解説がいるだろう。「家畜化」とは「教えられたことに対して本来、人間なら考えるであろう最低のことも考えずに,ただ教えられた通りに動くこと」を言う。 たとえばテレビで「こんにゃくが健康によい」と聞くと、すぐスーパーに走るような行動を言う。 政府やNHKが報道したことに対して、自らの経験,知識などを動員してその是非を自分なりに考えるようなことがあれば「家畜化」とは呼ばない。 次に、職務と正義の関係である。 ベトナム戦争・・・アメリカがベトナムと戦った今から50年ほど前の戦争だが・・・そこで、上官の命令でベトナム人を銃殺した兵士の裁判が行われた。 兵士の言い分は「兵士は上官の命令に従うのが義務である」というものであり、判決では裁判官が「兵士は上官の命令に従わなければならない。しかし、上官の命令の上に人間としての道徳がある」と行った。 これに対してさらに兵士は「私が上官の命令に従わなければ、私が射殺される」と反論すると,裁判官は「あなたが射殺されるのと、あなたがベトナム人を射殺するのとなにか違いがあるのですか」と聞く。 人間は自分を中心に考える。でも、正義というのは個々人から離れて存在する。 だから、一人のベトナム人が死ぬのと,アメリカ兵士が死ぬのとは同じである。それなら、人間の正義に従うのが当然と言っている。 私が名古屋市の経営アドバイザーになって自治体の役人とつきあうようになると、それまでの私の人生では経験したことがないことに遭遇した。 その一つが「市民のためではなく、国家の命令を聞く」ということであり、二つ目が「どんなときでも自分の身を守る方法を選択する」ということだった。 人間は弱い。その弱さが、学校の先生とか自治体の役人のように、ある任務が決まっている人に大きくのしかかるようだ。 壺井栄の「二十四の瞳」は実に美しい映画だが、あの映画に描かれている高峯秀子が演ずる先生はか弱そうに見えて、実はとても勇敢な先生なのである。 先生は「国家の言うまま」に児童に教える。それは自分が洗脳されているからもあるが、教科書や学習指導要領に書かれたものをそのまま教えるのが楽でもあるし、出世のためでもある。 先生も人の子だ。先生を聖職から人の子に降ろしたのは日教組だが、今の先生が人の子であることは確かだが、人の子には同じ人である児童や生徒の人格を教育することはできない。 数年前、あるところで小学校の先生に講演をしたことがある。講演の後,男性の先生が手を挙げ,「私は小学校6年生を担当(担任)しているが、環境のことで自分で調べて正しいことを児童に教えようとすると、父兄から直ちに苦情が来る」というのだ。 聞いてみると、教えたその日や翌日に父兄から電話があり「先生,いい加減なことを教えてもらったら困る。子どもの言っているのを聞いたらNHKと違う」と言うという。 つまりNHKの世論操作が成功しているのだ。日本人が素直にそして誠実に「NHKは正しいことを報道してくれる」ということを逆手に取った世論操作に乗ってしまっている。 その被害を受けるのは児童である。 すでにNHKによる世論操作が完了した今,小学校や自治体では、 「ツバルの人って可愛そうでしょ」 「国がなくならないように省エネに気をつけたり、ごみを分別しましょうね」 と教えている。 日本の大人は惨めになったものだ。日本人の誇りも矜持もない。ただ、家畜となって子どもにウソ(事実を確認せず,間違っていても自分の責任でなければ良いと言うこと)をつく。 教学社という教科書の出版社がある。 そこから出ている高等学校の社会の教科書に環境についてのいくつかの誤りがあった。こころある先生から送っていただいた。 私がその教科書会社に電話すると、単純な数字の誤りは指摘をしたら修正してくれたが、「ツバルが沈んでいる」というのは修正しないという。 その理由を聞いたら「環境白書に書いてある」と答えた。 教科書というのは政府の広報誌ではない。たとえ政府の広報誌に書いてあっても,教科書の執筆者は学問的に正しいことを国民に示す必要がある。 「多くの人がそう思っているから」とか「その方が無難だから」という理由で、間違っているかなどあまあり関心がない。それを子供たちに教える。 なぜ、学校の先生や自治体の役人が金縛りにあったように家畜化されたのだろうか? 私は「自らが判断すること」が「自らの能力や調査する時間では処理できない」ことによって、その本来の職務である「事実を伝える」ということが不可能になり、「NHKが言っているから」とか「政府の白書の書いてあるから」ということにすり替わったと考えている。。 また、自治体の役人の場合は未だに明治以来の「政府の代理としての役人」という意識が強く,「上官の命令があっても人道というより高度な判断基準に従わなければならない」ということが良く理解されていないと思う。 日本の江戸時代までは、「しきたり」によって日本人の魂が守られてきたが、「しきたりから合理性」になった現代では日本人一人一人の誠実さが問われるのだ。 「レジ袋騒動」などで自治体の役人はよく「市民の環境意識が低いから」と言うが、それは環境意識が低いのではなく,市民は人間だからよく考えるが、役人は家畜なので、政府の言いなりであり、その間に溝があるというだけである。 今や役人は公僕から家畜になった。誇りある自治体の役人、出でよ!!
(平成22年6月11日 執筆 一部修正)