歴史と記憶に関する自然科学からのアプローチ

はじめに

 歴史は「頭脳を使って学習して知るもの」と考えられていて、我々の歴史認識は「勉学によって得られた歴史的知識」とされている。

しかし、本当だろうか?

つまり、かつては「鎌倉時代は1192年に始まった」と覚えていなければ歴史を知らないと言われ、第2次世界大戦の歴史を認識するには、その歴史そのものを「知る」必要があるのは当然と受け止められている。従って「歴史教育」を受けたり、「歴史の本を読む」こと、さらには必要に応じて年号を暗記することが歴史を知ることであり、時にはそれが歴史認識の全てであると見なされた。

しかし、人間の認識の中で大脳皮質の活動(学習して知る)が占める割合は小さい。本論の中で詳述するが、「人間の認識の項目数」では大脳皮質が取り扱う情報は、全体の7分の1にしか過ぎない。それに加えて、大脳皮質が処理する情報はそれ自体に大きな欠陥があり、「認識」と言うより「錯覚」に近いものが多い。大脳が何を錯覚するかについても、ここで述べたいと思う。

以下、「人間は歴史という時間的な経験をどのように認識しているか」について、これまでの論理にとらわれずに整理を行ったものである。なお、ここでは「歴史と認識」に対して、現代の日本で行われているような、「狭義でかつ具体的な歴史的事実(たとえば南京事件)を、あるいは政治的に、あるいは教育的に歴史の認識とする」ということではなく、それらの問題となることの底にあるものを明らかにするのが目的である。

第一章        人間の認識に関する知見の整理

第2次世界大戦まで「人間の認識がどのようなものであるか」についての学問はそれほど進んでいなかった。その第一の原因は「人間は命を持つ魔珂不可思議な存在である」、もしくは「神から与えられた神聖な存在である」と考えられ、人間の認識そのものを評価するのは神に対して不敬な活動であるとされていたからでもあった。それが、1953年に、後にノーベル賞を受賞する若きイギリスの科学者ワトソンとクリックがDNAの構造解析に成功し[i])、それによって「命」とは特別なものではないことが明らかになり、それまで重くのしかかっていた心理的、宗教的な天井が取り除かれた。

ワトソンとクリックの成果はやがて、心理学、認識学、そして脳科学などの発展を促し、現在では「人間を冷静な学問的な研究対象とすることは不敬なことではない」との認識が確定して、多くの新しい発見と解析が進んでいる。しかし、まだ人工的な生命を作り出す試みに対しては「神の領域に入るのか」という反撃があることから判るように、すでに人間の非生物性が明確になって50年を経ても、未だに自らが生物であり人間であるという理由から、生物の非生物性を否定する人もいるが、それは自然科学から見ると学問的(一定の学問的手法によって確定している事実を、学問的ではないプロセスによって否定することを拒否する)態度であるとは言えない。

人間の神聖性が取り除かれてしばらく、人間は「本能と頭脳」で対象物を認識すると考えられていた。つまり本能は「遺伝子や染色体」というようなもので決められた動物的なもので、美味しいものを前にすると食欲がわくというタイプの認識であり、それに対して「頭脳」は「頭」にあって学習的に得られた事実を認識し、冷静に解析するものだと分類されていた。しかし、それは人間だけ、もしくは自分だけを見て、演繹的に考え出した結論であって、必ずしも事実や帰納的な考察に基づく、いわゆる学問的な手続きを経て成立している概念ではない。

一体、動物と人間の「本能と頭脳」はどのようにして発達してきたのだろうか?

生物が誕生し動物が出現して以後、細胞膜や核などととともに、徐々に生物の活動を制御する中枢神経系が発達してきた。そして、中生代が終わり、哺乳動物が出現することによって「生まれた後に追記、書き換えが可能な脳情報」(電子機器ではD-RAMに相当し、本論では「書き換え情報」、「大脳皮質情報」などと呼ぶ。)が、「本能を司るDNA情報」(一個人の人生の時間内では書き換えのできない情報に相当し、本論では「組み込み情報」などと呼ぶ。)に上回るようになったのである。

1に主として動物の種類と、組み込み情報(DNA)、書き込み情報、さらに人工的な外部情報(電子情報)の関係について整理をした。

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1 動物の種類と情報の種類と量

 ウィルスは生物と言えば生物、無生物と言えば無生物で、命を持っているかどうかはまだハッキリしていない。もちろん中枢神経系の情報処理システムは皆無である。細菌などの単細胞生物はその活動自体は生物として完結している(ウィルスは完結していない)が、「命の有無」は明確ではなく、中枢神経系はほぼゼロである、何も考えない単なる化学反応の比較的単純な組み合わせにしか過ぎない物体とも考えられる。

その後、生物の進化とともに遺伝情報は徐々に増大し、クラゲやウニのような腔腸動物になると組み込み情報は数億ビットに達するけれど、書き換え情報(脳)はまだ現れない。つまり彼等は先天的に組み込まれた情報しかないので、少なくとも一世代は「親が友達と教えてくれたものだけが友達」であり、相手が親切にしてくれたかどうかを覚えることはできないのである。つまりいくら命の危険を救っても恩返しをしてくれる可能性はない。ただ、サンゴのような刺胞動物も本論の主題である「歴史的認識」はゼロではない。彼等はDNAを有し、後に述べるミラー・ニューロンなども存在すると考えられる。つまり、「サンゴにとってこれまでの歴史的な認識から、ヒトデは敵である」という「組み込み情報」を有している。

しかし、DNAに書き込まれた情報が生まれつきの組み込み情報であるということと、ある特定の先入観をもって固定的な書き換え情報を持った場合、その二つを区別することは困難である。たとえば、日本軍の南京事件に関する朝日新聞などの「大虐殺」という歴史の認識が事実と反するとして、それに固執する行為は、その行為のよって来る情報の種類が書き換え情報であっても、その認識は組み込み情報と同質である。つまり、生物は行動や判断に当たって、組み込み情報と書き換え情報の双方を組み合わせて最終的な結論に達しているのであり、書き換え情報が書き換えられなければ組み込み情報と同じであろう。

 このように、生物の情報の進化によって、カエルのような両生類ではわずかながら脳情報が現れ、恐竜の類、つまり爬虫類の段階で脳情報は遺伝情報の量とかなり接近した。哺乳動物ではほぼ1桁ほど脳情報が上回ったが、人間はさらに1桁、脳情報が増え、人間の行動や思考に脳が大きな役割を果たすようになった。

 また、書き換え情報を司る大脳皮質の下に、線条体、視床下部、扁条体、海馬、小脳などがあり、そこでは習慣、体の動き、食欲、性行動、情動、記憶、運動などを支配している。この領域は組み込み情報と後天的学習情報が組み合わさっていると考えられている。


[i] Watson, J.D. & Crick, F.H.C., "Molecular structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid', Nature 171, 737-738 (1953).