【教師】
この長い旅も、終着点に近づいて来ました。最後に「教育」について整理をします。
教育ですから、まずは教育基本法(少し前に一部改訂されていますが、ここでは改訂前のものを使います。)の「教育の目的」を読んでみましょう。
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「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたっとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない.」
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解説もいらないほど平易な文章ですが、若干、筆を足しておきます。
まず、教育の目的は「知識」ではなく「人格」だということですが、これは難しいので、少し後回しにします。
第二の目的は、「平和な国家と健全な社会を形成する、心身ともに健康な国民の育成」です。平和な国家と健全な社会は、心身ともに健康な国民によって作られるという確信が教育なのです。
そこで、教育現場では、「真理と正義を愛し,個人の価値をたっとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた」子供たちを育てようとします。
「真理」を教えるのは難しいのですが、学問的にすでに確立しているものを中心にして話します。たとえば、地球温暖化では、「あなたには何ができますか?」などということではなく、「地球の気温はどのようにして決まっているか」とか、「金星や火星の気温は生物が住めないほど高かったり、低かったりするけれど、なぜ地球には生物が活きているのか」とか、「我々の身の回りのもののほとんどがCO2を原料としている」というようなはっきりしたことを教えます。
「正義」も難しいものの一つです。「正しい」ということは、信仰でも無い限り、それほどはっきりしたものではないのですが、この世に「正義」というものがあり、それを「愛する」ことが大切であることを寓話や歴史的な例をあげて説明するのが普通です。
いずれにしても、真理とか正義を教えるのではなく、「真理や正義を愛する心」を育てるのですから、事実そのものではないことも教師は注意しなければなりません。
「個人の価値を尊び」は比較的、教えやすく、個人個人には考えがあり、夢があるから、多数決で決まっても少数意見を尊重したり、その人たちが苦痛を感じないように配慮することを教えます。個人の価値が尊いので、強制したり、自分の価値観で縛ることのないように教えます。これは最後の「自主的精神」にもつながるものです。自分勝手にならず、周囲と調和し、日本社会を尊重しながら、それでも、個人の価値、自主的精神を持つ人を育てることになります。
英語で「チョイス」という言葉があります。「選択」という意味ですが、社会はできるだけチョイスできるようにしておき、どうしても統一しなければならないものだけを統一するということが大切だと、この教育基本法は主張しています。
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自治体が行っている「レジ袋追放」に私が苦言を呈しているのは、「個人の価値を尊ぶ」というのに反する、つまり「チョイス」の反対だからです。
かつて「万引き防止」のためにレジ袋が考案されましたので、「不透明の買い物袋を持ってスーパーに入ってはいけない」ということでした。これはチョイスを減らすということを意味しています。
もし、買い物に行くときに、買い物袋を持って行っても良いし、レジ袋に入れても良いという方がチョイスが多いので、買い物に行く方は快適です。
レジ袋一つとれば、どうでも良いことですが、このような細かいことを一つ一つ、チョイスを無くしていくと、結果的に人を「ある価値観」で縛ることになります。
「女の子は赤いランドセル、男の子は青いランドセル」などと決めずに、できれば「自分の良いと思うもの、ランドセルでなくても良い」というのがチョイスです。
「勤労と責任を重んじる」という心も大切で、個人の価値観としてはニートもあり得るのですが、勤労や責任に関しては少し制約をつけます。これは憲法にも「勤労の義務」がうたわれていますが、人間はどうしても誰かが「労働」をしなければ生きていけませんが、それを一部の人の負担にしない、みんなで苦労しようということです。
また「責任逃れ」をしないように指導します。これについては、最近、政治家、高級官僚、大企業、自治体などがはっきりした責任逃れをすることがあり、なかなか教育が難しいということがあります。
例えば「お役所は非を認めない」というのがあり、それなりに理由はあるのですが、教育現場としてはとても困ることがあります。
「役人は無謬である。なにか問題が起こればそれはすべて民間の責任だ」という不文律を学生に教えるのに苦労しています。時々、この種の質問があり、かなり深い意味の解説をしますが、それでもストレートにはわかりにくいのです。
教育には統一性が必要です。あるときにはAといい、あるときにはBと言うのは禁じ手です。精神関係で有名な話ですが、お母さんがある時には「何でもお母さんに言うのよ」と言い、次の時には「そんなこと、いちいち言わなくても良いわよ」と言うだけで、精神分裂症(現在では違う名称になっているが)になる子供がいます。
子供は親の言うことを「正しい」と受け取ります。その正しさ同士が矛盾しているのですから、頭が混乱するのは当然でしょう。
その点で、環境問題では、私は「温暖化防止のために、こまめに電気を消しましょう」と呼びかけ、「温暖化防止のために、電気自動車に乗りましょう」というのも同じ類で「社会分裂症」を起こすと考えています。
まして、「電灯からはCO2がでるが、電気自動車からはCO2がでない」というようなNHK的説明は精神の混乱を招きます。
同じく、教育では首尾一貫していることが大切で、矛盾したことを言わないという点では「自治体は教育はできない」と考えています。つまり、「教師」という職業は特別なのです。
私が企業の技術者の時には、会議に遅れることがありました。でも、教師になってから授業に一度も遅れたことはありません。交通渋滞でも絶対に間に合う時間に出て、言い訳をしないようにしています。
学生に「遅刻してはいけない」という人が、自分で遅刻したら教育にならないからです。でも、普通の人は忙しいので、遅刻することがあります。だから、このことだけでも「普通の人は教師にはなれない」ということなのです。
人間を教育するというのは厳粛なことで、口先だけでできるものではありません。また口先で教育を受けた子供は本当に可哀想です。
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日本が戦争に負け、新しい教育を作る原案ができた昭和27年に、「教育では人格を高めることが最も大切だが、教師の人格が髙いかどうかが心配だ」と書かれています。
この下りはとても厳しいもので、「自分は、個人的な欲望とか名誉、お金などにこだわっていないか? ウソはついていないか? 生活態度は真摯か?」と自分に問いかける毎日です。
名古屋大学で教鞭を執っているときに近くの先生に、「私は武田先生のように全身全霊で教育に当たることはできない」と言われました。これは私にとってとてもうれしく記憶に残っているのですが、果たして自分は全身全霊で教育をすることができても、それで私の教育者としての資格があるのか?と問うた毎日でした。
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教育というのは、医師と同じように特別な訓練を受けた教師が、日頃の生活態度を正し、勉強を続け、人格を磨き、そして神聖な教室で子供たちに向き合うものです。
その点では、私は「教師以外の人が教育する」というのにやや批判的です。大学でも「インターンシップ」などもありますが、体験としては意味があるものの、教育を受けるという点での影響を疑問に思っています。
このシリーズを書き始めるきっかけは名古屋市での講演でしたが、ずばりと結論を言うと、名古屋市のような自治体は「情報提供」は行っても、「教育」はできないと思います。それは日常的な仕事の中に、教育と相矛盾する内容を含んでいるからであり、名古屋市の人が教育の能力がないということではありません。
「先生を尊敬する」というのが公に言いにくくなっていますが、この言葉は正しいと思います。それは先生側から言えば、「尊敬される人物でなければならない」ということだからです。そのことが私たち「凡人である先生」に勇気と努力のきっかけを与えるからです。
この頃、小学生に「温暖化を防止するために、あなたには何ができますか?」という問いかけをする先生がおられますが、この言葉こそ、私たちが戦後、目指してきた民主的な教育を基本から壊すものです。
私たちの次世代は「自主的精神に富んだ」、「真理と正義を愛する」人たちです。だから「お上が決めてしまったから、その理由を聞かずに、ただひたすらに自分という小さなものができることだけやりなさい」というこの言葉は日本の将来を破壊する可能性があるほど恐ろしい言葉なのです。
(平成21年12月19日 執筆)